概要
1924年6月3日にベルギーのアントワープで産まれる。(なお、生年月日には諸説あり)
1950年代から80年代までプロレスラーとして活躍、コーチとして若手レスラーの育成に力を注いだ第一人者。
得意技であるジャーマンスープレックス(原爆固め)は、その華麗なフォームから『プロレス芸術品』と称され、ヨーロッパ仕込みのレスリングで得た高度なテクニックから『プロレスの神様』と呼ばれている。
そのファイトスタイルに強く魅かれたアントニオ猪木は彼を師と仰ぎ、藤波辰爾、前田日明、藤原喜明、木戸修、佐山聡(初代タイガーマスク)といった、多くの日本人レスラーが彼の指導を受けた。
中でも、鈴木みのるは彼の直伝である『ゴッチ式パイルドライバー』を最大の必殺技としている。(ただし、彼から教わった型をそのまま使うのではなく、独自の改良を加えており、言うなれば『変形ゴッチ式パイルドライバー』である)
一方で、実力こそトップクラスであったものの、特に見た目の派手さを重視するアメリカのプロレス界では「あまりにも地味」「すぐに試合が終わる」として一部のレスラー、プロモーターには煙たがられていた。
また、マイナー団体のタイトルは奪取をしている一方、主要タイトルを一度も獲得したことがないことから「無冠の帝王」ともいわれている。(もっともWWWF(現・WWE)世界タッグ王座を戴冠した事はある。無冠なのはあくまで「メジャー団体のシングル戦線の主要タイトル」に限った話である)
逸話
1950年代、イギリスにあった『ビリー・ライレージム』(通称スネーク・ピット=蛇の穴)というレスリング道場で数年間トレーニングを積む。
梶原一騎原作の漫画『プロレススーパースター列伝』では画鋲をまいた床の上でブリッジしながらのバーベル上げ、コンクリート製のマットに叩きつけられる投げ技の受け身、手もしくは足を縛られてのグラウンドレスリングなど、過酷過ぎるというか、ありえないトレーニングを積み重ねた結果、ミイラのように痩せこけた場面が描写されていた(勿論フィクションである)。
因みに蛇の穴ことビリー・ライレージムは同じく梶原作品のタイガーマスクに登場した虎の穴のモデルになっている。
プロレスラーとしてのデビューは1951年(日付不明)にベルギーのフランドル地方で行われた興行でのフランク・セクストン戦である。
1959年に『カール・クラウザー』のリングネームでドイツ人ヒールレスラーとして米国でデビューしている。(なお当時カナダで試合をする時はフランス人キャラだった。)
国際プロレスに参加し、アンドレ・ザ・ジャイアントにジャーマンスープレックスを決めている。
新日本プロレス旗揚げ時に持ち込んだフランク・ゴッチが所持していたという「世界ヘビー級王座のチャンピオンベルト」は、実はゴッチが所持していたインディアナ/オハイオ版AWA世界ヘビー級王座のベルトのレプリカのレプリカで、新日本プロレス側が作らされたものだった。
アントニオ猪木によるとかなり金にはがめつい。
カール・ゴッチというリングネームは、かつては上述のフランク・ゴッチに肖って名乗ったとされていたが、アメリカでの記録が見つからず日本だけの名乗りだと思われていた。その後アメリカでの記録が見つかり、その過程でゴッチが信頼していたプロモーターのアル・ハフトに頼まれてハフトの現役時代のリングネーム“ヤング・ゴッチ”から付けたのではとの説が浮上した。しかしその後ドイツでも名乗っていた記録が見つかり、ゴッチ自身が「母親の旧姓を付けた」と証言した事から由来に関しては解決を見た。
細かい反則技をレフェリーの死角を突いて使うので他のレスラーからは嫌がられていた。
1968年、日本プロレスのコーチを引き受け若手・中堅レスラーを厳しく鍛える『ゴッチ教室』を開く。
彼にしごかれたレスラーの一人、山本小鉄は後に鬼軍曹と呼ばれ新日本プロレスの若手レスラーを育成している。
1984年に新日本プロレスから分派したUWFでは顧問を務め、彼の薫陶を受けた選手や鍛えた者たちは「U系」とも呼ばれる。
その指導方針
マシントレーニングによる「見せる筋肉づくり」を嫌い、コシティなどの古典的なウエート器具を除きセルフウエイトトレーニングを重視する。が、実際はバーベルやダンベルを多数所持、使用していたことが残っている映像や写真でわかっている。「人間の体に取っ手なんてついてない」とバーベルやダンベルの類いを使わないと公言していたが、コシティにもつかむところあるしね・・・。
いつ如何なる時でも全身の力をバランス良く発揮させるのが理想(猪木のキーロックを持ち上げてみせた動きなどはその典型)であり、休日には動物園にゴリラを見に行き、「あれこそ理想的な肉体」と飽きずに眺めていたそうである。
食事療法にもこだわりがあり、できるだけ収穫された形に近い食品から人間の消化力を向上するということも兼ねて「食べて大きくなる」ことを重視していた。プロテインやサプリメントについては誤った知識に基づいた偏見を持っており、この考えは新日本プロレスでも長らく支配的であった。
もちろん、ビリー・ライレー・ジム出身であるため技術も飛びぬけていたが、ルー・テーズは「動きはまるでロボットのようだった」と評し、また、UWFインターナショナルに所属した選手たちからは「ゴッチさんって実はパワーファイターなんじゃないですか?」という声が上がっていた。
ゴッチは指導熱心なコーチだったが、独りよがりなところがあり熱が入ると延長は当たり前、練習後も食卓を囲んでは「ミーティング」という名のプロレスの昔話を一方的にしゃべり倒す状態だった。武藤敬司はゴッチの指導を新日本の道場で受けた最後の世代だったが、そんな彼のせいで新弟子の彼らはずっと食事の世話をし、終わるころには夕方夕飯の支度で、ようやくそこで初めて食事にありつける有様(力道山以来の伝統で、朝食抜きで練習、その後昼食と夕食をとる相撲と同じ習慣があった)だったので、ゴッチのことは良く思っていない。
また、基本的にはゴッチが志向するキャッチレスリングのレッスンとフィジカルトレーニングが基本だったため、ショープロレスが進むプロレス界の需要には合わず、むしろシュート志向のレスラーを生み出すリスクから次第に新日本側もフロリダにあるゴッチの下へはあまりレスラーを送り出すことがなくなっていった。
長州力も、地味な自分の成長のためにアメリカのショーマンシップを学びに行ったのに、それとは真反対のゴッチに師事することに魅力を感じず、あまり熱心ではなかったようである。