概要
カール・ゴッチをして、「My Son(我が息子)」と言わしめる卓越したグラウンドテクニックが光る。
獲得タイトルはIWGPタッグ王座(パートナー前田日明)
兄の木戸時夫も日本プロレスに入門したプロレスラーだったが練習中の怪我が元でリングを去り、闘病生活の末1977年に死去。
略歴
1968年10月、日本プロレスに入門し、1969年2月21日(奇しくも、アントニオ猪木が日本プロレスを除名された翌日である)にプロレスデビュー。ユセフ・トルコの付き人を務める。
1971年12月14日に、藤波辰巳共々日本プロレスを退団し、1972年3月に新日本プロレスの旗揚げに参加し藤波と共に西ドイツ遠征に出る。
その後、アメリカの「カール・ゴッチ道場」の門を叩き、ゴッチから直接レスリング技術を学んだ。
しかし、帰国後の新日本で木戸は地味なファイトスタイルや寡黙な性格が災いして前座試合の出場がメインとなり、藤波とは差がついてしまった。
1984年の9月から第1次UWFに参加すると徐々に評価が高まり、木戸の職人肌のグラウンド・テクニックは「いぶし銀」と呼ばれるようになった。
1985年に行なわれたUWF内の格闘技ロード公式リーグ戦で優勝。
同年12月に第1次UWFの崩壊に伴い新日本へ復帰すると、木戸もキド・クラッチや脇固めを駆使して活躍。
1986年8月、前田日明とのタッグでIWGPタッグ王座を獲得した。
1990年代以後の新日本の中で一人、地味ながら切れ味鋭いレスリングスタイルを貫いた木戸は、ハプニングが頻発する札幌大会では「新日本の良心」として異常なほど人気があった。
また1990年2月10日、東京ドームでの全日本プロレスとの対抗戦で木村健悟と組んでジャンボ鶴田・谷津嘉章組と闘い、鶴田を相手に渡り合ったり、1992年から始まった天龍源一郎率いるWARとの対抗戦では木戸は脇固めやアキレス腱固めといった関節技で相手を苦しめ、天龍の右腕を破壊し試合終了までほぼ行動不能に追い込む活躍を見せている。
2001年11月、横浜文化体育館で33年間の現役生活に一旦は終止符を打った。
現役引退後、コーチとして新日本に残り、現在、米プロレス団体WWEのトップレスラーとして活躍する中邑真輔らを育成する一方でゴルファーを目指した娘・愛の育成も力を注ぎ、その一方で一時的に復帰して試合もした。
2010年2月22日、IGFプロレスリング「アントニオ猪木50th Anniversaryスーパーレジェンドマッチ」に参戦、藤波辰爾と組み初代タイガーマスク、藤原喜明組と対戦した試合が最後の試合となった。(結果は15分引き分け)。
2020年2月28日のプロレスリング・マスターズ後楽園大会のリング上の師・アントニオ猪木に挨拶し、これが木戸の公的な最後の表舞台となり、その後長くガンを患っており闘病生活を送っていた。
2023年12月11日、容態が急変して横須賀市内の病院へ救急搬送されたあと、同日に死去した。
73歳没。
3日後の14日に長女のプロゴルファー、木戸愛がマネジメント会社を通じて報告したが、愛は同月1日に結婚発表したばかりだった。
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