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概要編集

本名:鶴田友美(1951年3月25日~2000年5月13日)

身長:196cm 体重:127kg(全盛時)


日本の元プロレスラー全日本プロレスで活躍した。

瞬発力、持久力、柔軟性に優れ、体格に恵まれていたため、大柄な外国人レスラー相手にも力負けしなかった。

得意技はジャンピング・ニー・バットドロップキックフライング・ボディシザース・ドロップ、各種スープレックスなど。特に難易度の高いフロント・スープレックスについては第一人者だった。

若手時代はジャーマン・スープレックス・ホールドを多用していたが、子供が生まれたのを機に「人殺しの子と言われたら可哀そう」という理由でバックドロップを使用するようになった。

引退後はスポーツ科学研究者、大学講師。


来歴編集

1951年3月25日、山梨県牧丘町(現・山梨市)のブドウ農家に誕生。


1964年、中学2年で身長が180cmを超える。夏休みに朝日山部屋に体験入門するが新弟子検査に受かってしまい、叔父の甲斐錦二所ノ関部屋)に話をつけてもらい、新弟子検査を取り消して家に戻れた。

1966年、山梨県立日川高等学校に入学。受験勉強で目が悪くなりボールを追えなくなったため半年で野球部をやめ、バスケットボール部に転籍。2年生、3年生の時にインターハイに出場した。


1969年、中央大学法学部に進学。1年次まではバスケットボール部に所属し日本代表チームに呼ばれていたが、オリンピック予選突破の望みが薄いことから個人競技のレスリングに転向を考え、レスリング部へ入部を希望するが拒否され、自衛隊道場で練習を積む。

1971年、全日本選手権のフリースタイルグレコローマンスタイル両部門で優勝、翌年も連覇したため、レスリング部が「鶴田君、ウチに来てくれないか」と頭を下げてきた。


1972年、中央大学レスリング部に正式入部する。ミュンヘンオリンピックに出場(グレコローマンスタイル100kg以上級)した。

実績を買われ、ジャイアント馬場から全日本プロレスにスカウトされる。入団記者会見では「全日本プロレスに就職します」と発言。

その後、テキサス州アマリロザ・ファンクスの元へ送られプロレスラーとしての修行を積み、スタン・ハンセンボブ・バックランド等と親交を結ぶ。

1973年3月24日、アマリロでエル・タピアを相手にプロデビュー。日本への帰国早々、馬場のタッグ・パートナーに抜擢され、10月9日、インターナショナル・タッグ王座戦でザ・ファンクスと戦うなど馬場に次ぐ全日本プロレスNo.2となり、ポッと出の新人に飛び越されたベテラン勢は面白くなかったという。10月27日、公募によりリングネームをジャンボ鶴田とした。


プロレス大賞において、1976年のラッシャー木村戦、1977年のミル・マスカラス戦、1978年のハーリー・レイス戦と、3年連続で年間最高試合賞を受賞。


'80年代前半は新日ブームもあって、余裕をもって試合を進める鶴田は「若大将」「善戦マン」と揶揄され、「強すぎて面白くない」と評されていた。

1981年、馬場は鶴田に付き人として三沢光晴を付けるなど、他の選手とは別格であることを示す。

1983年8月31日、ブルーザー・ブロディからインターナショナル・ヘビー級王座を奪取し、試合後に馬場から「今日からお前がエースだ」と指名された。プロレス大賞で最優秀選手賞を受賞。

1984年2月23日、ニック・ボックウィンクルからAWA世界ヘビー級王座を奪取し、16回に亘り防衛。プロレス大賞で最優秀選手賞を受賞。

1985年11月4日、長州力とのシングルマッチは60分フルタイムドローとなるが、試合後ロッカー室でぐったりしていた長州に対し、鶴田はシャワーを浴びさっさと飲みに行ったことから新日ファンの間にも「怪物レスラー」ぶりが周知される。


1987年、「天龍同盟」を結成した天龍源一郎との抗争は鶴田の規格外の実力を可視化させることとなった。

1989年4月、インター・PWF・UNの三冠を統一した三冠ヘビー級王者となる。

1990年、支配下選手がSWSへと大量離脱し危機を迎えた全日本プロレスにおいて、三沢光晴川田利明小橋建太超世代軍の壁となる厳しいプロレスを見せる。


1992年11月、B型肝炎を発症し長期入院。退院後も再発の危険性があるため第一線を退き、筑波大学大学院に通いつつのスポット参戦となる。

1999年1月31日、馬場の死後、引退及び全日本取締役辞任を発表。研究交流プロフェッサー制度によりスポーツ生理学の教授待遇としてポートランド州立大学に赴任するが、B型肝炎は肝硬変を経て肝臓癌へ転化しつつあった。

2000年5月13日、フィリピン肝臓移植出術中に出血多量で亡くなる。享年49歳。


余談編集

  • 自らのレスラーとしてのスタイルについては「天龍とかのアップ・スタイルにはアップ・スタイルで、ドリーとかのマット・スタイルにはマット・スタイルで…相手に合った対処をしていくのが僕のスタイルかな」と語っている。
  • 鶴田が「オリピック出場は難しい」と見たバスケットボール日本代表は、ミュンヘンオリンピックモントリオールオリンピックに連続出場し、予想は外れた。
  • 入部拒否された当時の中央大学レスリング部にはミスター・ポーゴが所属していたが、厳しい練習に付いて行けず1年で中退。
  • ファンクス道場で修業中、金欠のスタン・ハンセンは日本から鶴田に仕送りされてくるインスタントラーメンを勝手に食っていた。インスタントラーメンは醤油味と味噌味があったが、ハンセンは味噌味を嫌って食べなかったため、鶴田が味噌味ばかり食べることになった。
  • オリンピックに出場したアスリートということで、アマリロ時代は非常に女性にもて、3P4Pは当たり前だった。
  • サムソン・クツワダから笹川良一をバックにつけた新団体へ誘われ、乗り気になっていたため馬場と夫人の馬場元子の信頼を失い、馬場の死後も鶴田にポストは用意されなかった。下記の事情と合わせ、鶴田が1999年で引退する理由の一つにもなる。
  • 新人時代は普通に筋トレもしていたが、1985年の夏に医者から「B型肝炎ウィルスキャリアである」と告げられ「プロレスラーを続けるのは自殺行為だ、引退した方がいい」と助言を受けている。鶴田も一度は引退を考え「経営の勉強を始めた」とプライベートで仲の良かったキム・ドクなどに打ち明けている。
    • 当然ながら激しい運動をすると発症の恐れがあるためトレーニングのスタイルも見直さざるを得なかった。三沢は自著で「鶴田さんが筋トレをする姿は一度も見たことがなく、好きなテニスやバスケをして遊んでいたが、試合では無尽蔵のスタミナを誇った」と語っている。
    • 肝炎キャリア発覚後は激しいトレーニングができなくなり、治療薬の副作用などもあって、脂肪が多く付いた体となっている。この頃に新日本プロレス山本小鉄は鶴田の脇腹をこっそり掴んだが、贅肉の残る感触がしたため、マスコミに対して「彼は戦う男の肉体ではない」と酷評するコメントをした。

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