プロフィール
本名 | 濱田 廣秋(はまだひろあき) |
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別名 |
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誕生日 | 1950年11月27日 |
出身地 | 群馬県前橋市 |
身長 | 176cm |
体重 | 90kg |
プロレスラーとしての経歴
高校、社会人(河合楽器製作所)において柔道の選手として活動、柔道のミュンヘンオリンピック候補選手でもあったが、体調不良により退職。
1972年、友人の関川哲夫(のちのミスター・ポーゴ)が新日本プロレスへ入団志願に向かう際に付き添いで同行し、柔道の実績を買われて入団。
1972年3月6日の大田区体育館での新日本プロレス団体旗揚げ戦でデビュー予定が変更、3月16日、新日本プロレスオープニング・シリーズの対藤波辰巳戦にて、本名の浜田広秋をリングネームとしてデビューした。(関川も3月20日にデビューしたが知らないうちに解雇され、旗揚げの1シリーズのみで退団、海外にわたって活動する。)
その後「リトル浜田」の名で軽快な動きで大きな選手を手玉に取り前座で活躍。
1975年にメキシコへのプロレス修行に出発、リングネームも「グラン浜田」に改名。
メキシコでは、ユニバーサル・レスリング・アソシエーション(Universal Wrestling Association、メキシコではルチャ・リブレ・インターナショナル〈Lucha Libre Internaciónal、略称LLI〉を中心に活動。1979年まで行い、同年2月に凱旋帰国を果たした。
その後1995年まではメキシコと日本を往復する生活を送る。
1984年4月に第1次UWFに参加。同年8月には全日本プロレスに移籍。
1986年にジャパン女子プロレスのコーチに就任とともに、一時引退。しかし
1988年に、同じく引退してコーチに就任していた大仁田厚との遺恨が発生、女子プロレスのリングながら試合を行い、現役に復帰。
1990年3月にユニバーサル・プロレスリングの旗揚げに参加。
1992年11月27日にザ・グレート・サスケがみちのくプロレスを旗揚げした際、ただ一人残り、その後FULLと改名したが自然消滅。
(ここまでの新日本→UWF→全日本→ジャパン女子→ユニバーサル、という団体移籍は入団時から目をかけていた新間寿に対する義理を優先したものと後に公言している。)
1994年8月から古巣の新日本に登場し、1995年にみちのくに入団。
2001年にフリーとなり、新日本・大阪プロレス・全日本など多くの団体にも出場。
2006年、娘の浜田文子が「ドクロンZ」として参戦しているハッスルに「ドクロンZパパ」というリングネームで登場。(後述。因みに入場曲は「天才バカボン」。)
2007年には久々にメキシコマットに登場、日本では藤波との交流から、無我〜ドラディションにほぼレギュラーメンバーとして参戦。
2008年12月18日、「昭和プロレス 第2弾興行」後楽園ホールでメモリアルタッグマッチ(20分1本勝負)に出場。鶴見五郎とタッグを組み、大仁田厚、栗栖正伸ペアに勝利。
2009年4月15日、大阪でプロレス団体「MWF(メキシコ・レスリング・フェデレーション)」の旗揚げ戦を開催。
2011年11月、DDTプロレスリング後楽園大会「God Bless DDT 2011」に突然登場、大石真翔、男色ディーノらのユニット・ホモいろクローバーZへの加入(緑)が決定。
2013年8月9日、新宿FACEで開催された浜田文子15周年記念大会「〜Aventurera」に出場。
2017年、前立腺癌の手術をしたことを明かした。
2019年2月、メキシコにいる娘達の勧めから、再度メキシコへ移住した。(後述。)
家族
メキシコ修行中に結婚、娘のソチ浜田、浜田文子もプロレスラーである(ソチは夫人の連れ子で文子とは異父姉妹。ソチは引退。)がのちに妻とは離婚。
後に、日本に活動の場を移した際に日本人女性と再婚した。
みちのくプロレス所属中の1999年には、当時既にプロレスラーになっていた娘の浜田文子と親子タッグで試合し、2000年には、娘の文子と組んで、娘のソチ浜田&ソチの夫のペンタゴン組とのタッグ戦も実現。メキシコでも文子と組んでいる
2018年に娘・文子が麻薬取締法違反で逮捕。7月に懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の有罪判決を受けた。更に自身も脳梗塞を発症し、同年12月31日には再婚した妻も急逝、2019年2月、メキシコにいる娘達の勧めから、再度メキシコへ移住している。
文子も翌年メキシコで再起している。