プロフィール
本名 | 同じ |
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別名 | キッド・コビー、チン・コビアシ |
身長 | 183cm |
体重 | 105kg |
得意技 | フィッシャーマンズスープレックス※、前蹴り、ソバットなど |
※一部では小林のオリジナル技という認識が広まっているが、正確にはメキシコ修行を経て現地の前座の選手が使っていた技を小林が日本に持ち帰ったのが由来である。
概要・来歴
1972年、丸子実業高等学校を中退して16歳で新日本プロレスへ入門。藤原喜明(入団時24歳)よりも1週間、長州力(入団時22歳)よりも1年先輩にあたる。
リトル浜田とのプレデビュー戦を経て、1973年に栗栖正伸戦で正式デビュー。
1981年9月27日、リンピオの日本人選手として、アレナ・メヒコでの興行でアンドレ・ザ・ジャイアントのパートナーに起用され、ピーター・メイビア&エル・カネックと対戦している。
1982年、アメリカへ渡りNWAロサンゼルス地区でキッド・コビー(Kid Koby)のリングネームで活動。7月18日にティモシー・フラワーズを破りNWAアメリカス・ヘビー級王座を獲得。
10月に帰国後し、赤いパンタロンのマーシャルアーツスタイルをコスチュームに(左半分が白、右半分が黒というショートタイツを着用することもあった)、初代タイガーマスク(佐山聡)との抗争劇で一気にブレイク。「虎ハンター」と呼ばれ、タイガーの覆面を剥ぎにかかるヒールに徹した。
維新軍の前身である革命軍結成直前にニューヨークのWWFへ長州力と共に一時遠征し、チン・コビアシ(Chin Kobiashi)の名でマサ斎藤と合体。
その後は新日本プロレスの中でも反体制の維新軍団として(長州、斎藤、キラー・カーン、アニマル浜口、谷津嘉章、寺西勇)らと行動を共にし、中でも寺西とはジュニアヘビー同士ということで多くタッグを組む。
1984年9月、維新軍団のメンバーらと新日本を離脱して「ジャパンプロレス」を設立し、全日本プロレスに参戦。2代目タイガーマスク(三沢光晴)を相手に虎ハンターとして活躍。
1985年にNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を、1986年に世界ジュニアヘビー級王座を獲得。
1987年、新日に出戻り、1987年8月にIWGPジュニアヘビー級王座を獲得。
1989年、4月24日の新日本プロレス東京ドーム大会では獣神ライガーのデビュー戦の相手を務めた。
1992年、ヘビー級転向。誠心会館との遺恨の完全決着を巡って新日選手会と対立し、7月に越中詩郎らと「反選手会同盟(後の平成維震軍)」を結成。
しかしその直後、大腸癌が発覚。大腸を20cm近く切除する手術を受けたが、それについては『体調不良』として伏せられた。約半年の休養とリハビリを経て1993年2月に復帰。
1999年、平成維震軍は解散。癌が肝臓に転移していることが判明し切除手術を行う。手術痕を隠すためタンクトップを着て試合に出るようになり、皆に見せられるような身体ではないと感じたことが引退のきっかけとなった。
2000年4月21日、獣神サンダー・ライガー戦を最後に現役を引退する。
引退以降は主に裏方を担い、現在は新日本プロレスでIWGP実行委員、スカウト部長、新日本道場の管理人として勤務。
2007年9月21日、リアルジャパンプロレスの後楽園大会で、佐山聡を相手に1試合限定の復帰戦を行い、以後2回試合をしている。
癌が肺に転移し2度手術を受けた。
2024年、肝臓癌の再発が判明したが、亡くなるまではごく一部以外には病状は伏せられていた。
新日退団以来も親交を持つプロレスラーで、同じく癌の闘病中であった西村修を同年7月に見舞うなど、闘病中も気丈に振る舞っていたことも明かされた。
9月9日、死去(68歳)。
翌10日に死が報じられ、小林を慕う多くの同業者やファンから哀悼の意が寄せられた。
エピソード
大食い
- あまりの大食いにあきれた母親から「そんなに食べたいならプロレスラーにでもなれ!」と言われたことがきっかけで入門。
- 若手時代、新大阪駅~東京駅を移動中の新幹線で、山本小鉄の「俺が奢るから、何でも好きなだけ食え」との言葉にビュッフェにあるメニュー全種類を食べたなど枚挙にいとまがない。その一方で道場で料理の腕をふるっていたり、台所の壁に野菜や花・動物のイラストを描いて練習に明け暮れる若手を和ませている。
虎ハンター
- タイガーマスクファンから多くのカミソリ入りの手紙や脅迫状が届いて困惑していたが、実は佐山とは仲が良く、現役時代はずっと佐山に黙っていて、引退後に告白した。またその当時カミソリ入りの手紙で掌を負傷している。