概要
昭和期に活躍した日本のプロレスラーで、「世界の荒鷲」と称された。
新日本プロレスリングの元・社長、会長、CEO。現在は相談役。
長男は格闘家・プロレスラーの坂口征夫、次男は俳優の坂口憲二(2005年にはホンダ・エアウェイブのCMで憲二と親子共演)。
身長196cm、体重125㎏(全盛期)。
得意技はアトミック・ドロップ、ネック・ハンギング・ツリー、各種バックブリーカー、柔道の投げ技など。
来歴
1942年
1958年
高校受験に失敗、一浪で久留米市立南筑高校に入学。
1960年
柔道三段を取得。
1961年
高校を卒業し明治大学に入学。柔道部で神永昭夫の指導を受けた。
1965年
5月、全日本柔道選手権で優勝。
10月14日から開催された、世界柔道選手権大会(リオデジャネイロ)に日本代表として出場しアントン・ヘーシンクと対戦したが敗れ、銅メダルに終わった。その後、メキシコオリンピック(1968年)での柔道の正式競技からの除外が決定しショックを受ける。また、打倒ヘーシンクを目指してきたのに肝心のヘーシンクが引退してしまい、モチベーションを失った。
1966年
全日本柔道選手権で優勝を逃した。日本プロレス関係者が工場のある宮崎県延岡市まで再三やってきて勧誘した。プロレス入りを決心した坂口が川島正次郎コミッショナーに挨拶に行ったのを産経新聞にすっぱ抜かれ、プロレスに敵愾心を持っていた柔道界から反発を受け、明治大学柔道部OB会から除名された。
1967年
旭化成工業を退職して日本プロレスに入団。柔道界からの風当りが強かったため、入団発表後すぐハワイでの特訓に出発。その後、アメリカ本土に渡りカール・ゴッチに指導を受けた。
8月5日、サンバナディーノ・アリーナ(カリフォルニア州)のスティーブ・コバック戦でデビューし勝利。その後はNWAの主要テリトリーを転戦して「ビッグ・サカ」などのリングネームで活動した。
1969年
日本に帰国。4月4日からの「第11回ワールドリーグ戦」に出場後、再び渡米。
1971年
日本に帰国。日本プロレスではジャイアント馬場とアントニオ猪木に次ぐスターとなる。
9月、猪木とのコンビで第2回NWAタッグ・リーグ戦に優勝。
12月、猪木が「会社乗っ取りを企てた」として選手会を除名・永久追放され、新日本プロレスを旗揚げ。
12月9日、坂口は猪木の代役でドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦し善戦する。
1972年
猪木に代わる馬場のパートナーとしてタッグチーム「東京タワーズ」を結成。しかし、芳の里社長がジャイアント馬場のNET登場を了承したため、日本テレビがテレビ中継から撤退。
7月、馬場が日本プロレスを退団。日本テレビのバックアップを受けて全日本プロレスを旗揚げする。大木金太郎と坂口が日本プロレスのエース格となるが、テレビ視聴率も地方興行も苦戦。NETと坂口は新日本プロレスとの合併を画策するが、大木が反発して失敗する。
1973年
猪木と対等の条件という約束で、若手の木村聖裔(木村健悟)、小沢正志(キラー・カーン)、大城勤を連れて新日本プロレスに移籍。
4月6日、NETが『ワールドプロレスリング』の中継を開始。猪木とのタッグは「黄金コンビ」と呼ばれた。
1974年
8月16日、猪木とのコンビでクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツを破り、NWA北米タッグ王座を獲得。
1979年
1月26日、ジョニー・パワーズを破りNWF北米ヘビー級王座を獲得。
1989年
6月、新日本プロレス社長に就任。セミリタイアとなる。数々のビッグイベントを成功させ、前社長の猪木が作った10億円以上の借金を完済した。
1990年
3月15日、地元・久留米で引退試合を行う。木村健悟と組んでスコット・ホール&コーポラル・マイク・カーシュナー組と闘った。
1999年
6月、藤波辰爾に社長職を譲り新日本プロレス会長となる。
2002年
6月、新日本プロレスCEOとなる。
2003年
9月14日、13年ぶりに復帰し蝶野正洋と組んで高山善廣&真壁伸也組と対戦。10月13日にも高山率いる真猪木軍との5対5イリミネーションマッチに出場した。
2005年
4月1日、経営の第一線を退き、新日本プロレス相談役となる。
2005年
10月、東京都狛江市にスポーツジム「坂口道場」をオープンさせ、後進の指導に当たった。
2009年
6月30日、狛江市の「坂口道場」を閉鎖。神奈川県横浜市の「坂口道場」(長男・征夫が経営)は存続。