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概要編集

本名:金一(1929年2月24日~2006年10月26日)

得意技石頭を利した「原爆頭突き一本足頭突き)」。


略歴編集

1929年2月24日、日本植民地時代の朝鮮全羅南道高興郡に誕生。シルムの選手として活躍した。

1958年、力道山に憧れて漁船で日本に密入国

1959年、入管法違反で逮捕されるが力道山が身元引受人となり、大野伴睦代議士の働きで釈放され日本プロレスに入門。ジャイアント馬場アントニオ猪木と共に「若手三羽烏」と称された(大木は既に30歳)。

1963年、アメリカへ修行へ行くが、力道山の死にショックを受け韓国へ帰国した。

1964年、再びアメリカへ渡り、その後は日本とアメリカ、韓国をまたにかけて活躍。


1966年、猪木が豊登東京プロレスに流出したため日本プロレスから呼び戻され、馬場に次ぐNo.2となるが、猪木が日本プロレスへ復帰してきたためその地位を失う。

1968年、日本プロレスの相次ぐ選手流出によりNo.1レスラーとなるが、興行成績で苦戦。韓国プロレスリング連盟が設立され、大木が会長に就任。

1972年、ボボ・ブラジルとの「頭突き世界一決定戦」が行われた。


1973年、坂口征二により新日本プロレスへの合併の話が進むが、裏切り者の猪木に乗っ取られる形になる事に大木が反発し、破談となり日本プロレスは崩壊した。その後大木は全日本プロレスに入団するが、冷遇されたため退団。


1974年、新日本プロレスへ参戦。

1975年、全日本プロレスへ参戦。

1979年、国際プロレスへ参戦。

1980年、NWAに加盟していない国際プロレスでNWA認定インターナショナル・ヘビー級選手権タイトルマッチを行ったことに全日本プロレスから苦情がきたため返上。全日本プロレスで復活させ、大木も全日本プロレスへ参戦。

1982年、阿修羅・原戦を最後に事実上の引退。


1995年、「夢の懸け橋」東京ドーム大会で引退セレモニーが行われ、大木は車椅子で出席。

2006年10月26日、慢性心不全と腎臓血管異常による心臓麻痺により死去。77歳。

2011年、全羅南道高興郡に「金一記念体育館」が開館した。


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