概要
本名:原進(1947年1月8日~2015年4月28日)
ラグビーの日本代表(1970~1976年)を経て、プロレスラー(1977~1994年)として活動した。
ラグビーで培ったタフネスが売りで、天龍源一郎の盟友として知られた。
得意技は「雪崩式ブレーンバスター」、「ヒットマン・ラリアット」等。
来歴
生誕より
1947年1月8日、長崎県北高来郡森山町(現・諫早市)の農家に誕生。中学時代は柔道部。
ラグビー選手として
1963年、高校2年の時、ラグビー部に転部。
1965年、東洋大学に進学。
1969年、近畿日本鉄道(近鉄)に就職し、ラグビー部に所属した。数年間、駅係員として勤務していた。
1970年、日本代表に選出され、3月22日のブリティッシュ・コロンビア州(カナダ)代表戦(秩父宮ラグビー場)でNO8として初キャップを獲得した。
1971年、日本代表監督・大西鐡之祐は、体の大きい外国選手に対抗するため体格の良い原をプロップにコンバートする。
1974年、近鉄ラグビー部の5年ぶりの全国社会人ラグビーフットボール大会制覇に貢献。日本選手権でも早稲田大学を破り、7年ぶりの日本一となる。
1976年、日本代表キャップ17を獲得。日本人として初めて世界選抜メンバーに選出される。しかし駅係員から乗務員に異動となり、教習でラグビーの練習ができなくなったためラグビー選手を引退。
プロレスラーとして
1977年、近鉄を退社。作家・野坂昭如が率いる草ラグビーチームでコーチを務めた。11月29日、グレート草津(元・ラグビー全日本代表)にスカウトされ国際プロレスへ入団。
1978年、覆面レスラーとしてテスト・マッチを行った後、6月29日の大阪府立体育館大会の寺西勇戦で正式デビュー。7月3日に海外武者修行に出発し、12月に帰国。野坂昭如より阿修羅・原 と命名される。
1980年、4月3日に新日本プロレスのリングに登場し、藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に挑戦し敗れる。その後、ヘビー級に転向した。
1981年、9月30日に国際プロレスが解散。帰郷し家業を継ぐつもりだったが、ジャイアント馬場に引き止められ、10月2日、フリーで全日本プロレスに参戦して天龍源一郎とのシングル戦を行い、好試合が評価され全日本と契約を結ぶこととなった。
1982年、新日本プロレスから移籍したスタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットを受けまくり、全日本に定着させることに貢献。
1984年、自ら手掛けた興行上のトラブルから10月に失踪。
1985年、4月3日の山形県体育館大会に突如現れ長州力を襲撃。4月24日、天龍とのタッグで長州&アニマル浜口と対戦するが、天龍に椅子攻撃を加え試合放棄。7月にフリー選手として全日本プロレスに正式に復帰した。長州や天龍の試合に乱入して襲撃を繰り返したため「ヒットマン」と呼ばれた。
1987年、鶴龍コンビを解消した天龍からパートナーに指名され、天龍同盟を結成。天龍とのタッグ「龍原砲」で一時代を築く。
1988年、11月19日に「私生活の乱れ」を理由に全日本を解雇される。原はギャンブル好きで多額の借金を抱えており、馬場が借金を肩代わりするなどしていたが庇い切れなくなった。札幌市で隠遁生活を送る。
1991年、SWSでプロレスラーに復帰。天龍の『レボリューション』部屋に所属した。
1992年、SWSが内紛で崩壊し、天龍が主催するWARへ移籍。
1994年、10月29日に後楽園ホールで引退試合を行う。
引退後
引退後は郷里に戻り、森山町立スポーツ交流館のスポーツコーチや諫早農業高校のラグビー部コーチを務めた。
ラグビー部コーチの職を辞した後は講演活動をしたり、知人の生花店で働いていたが体を壊し、親の介護をしながら療養生活をする。
2015年4月28日、雲仙市内の病院で肺炎のため68歳で死去。
関連タグ
プロレスラー ラグビー 国際プロレス 全日本プロレス SWS WAR