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概要編集

首都オンタリオ州オタワ
人口4101万2563人(2024年4月)
面積998万4670平方キロメートル
主要都市トロント(オンタリオ州都)・モントリオールバンクーバー
公用語英語・フランス語
国家元首(職)国王
政体議院内閣制 連邦立憲君主国

カナダ(英語・フランス語:Canada)は、北アメリカ大陸北部に位置する連邦立憲君主国。10の州と3の準州を有する。イギリス連邦加盟国にして、イギリス連邦王国の一国である。国土はロシア連邦に次ぐ第2位の広さ。

G7の一角であり、国際政治の大きな影響力を持つ国である。政治的には主要な貿易相手で隣接するアメリカ合衆国との結び付きが強いが、アメリカと対立していたキューバとも一貫して外交関係を有するなど、柔軟な外交政策を取っている。


政治編集

歴史的には旧宗主国のイギリスとの結び付きが深く、形式上はイギリス国王が国家元首としてカナダ国王と扱われており、カナダ総督は国王の代理という事となっている。事実上の元首は選挙によって選出される連邦政府の首相である。


社会編集

公用語は英語フランス語(独立運動を受けて、1990年代に公用語にフランス語が追加される)。1970年10月までケベック州では独立運動が高まって暴動が発生し、出生率は低いが移民を受け入れて発展を遂げている。その為リベラルで寛容な社会を形成する事は、カナダが国を維持するのに不可欠で、性表現は特に厳格な規制が敷かれた国の1国である。アメリカと違って銃の所持に厳格な規制があり、これは1989年12月に発生したモントリオール理工科大学虐殺事件が契機である。


近年アメリカ・ヨーロッパで頻発している組織的テロの発生は少ないが、「インセル」や「オルタナ右翼」などの過激思想に感化された単独犯によるテロは増加しており、深刻な社会問題になっている。大麻については部分的に解禁され、国内外で物議を醸した。


人口編集

2024年4月時点での人口は4101万2563人であった。


文化編集

スポーツはアイスホッケーが国技である。NHLはカナダを発祥としており、野球メジャーリーグバスケットボール(ちなみに考案者はカナダ人)のNBAのチームがカナダにも本拠地があるなどアメリカとの関わりが深い。なおアメフトに関しては似たような『カナディアンフットボール』という別の競技が存在してこちらの方が盛ん。旧宗主国発祥のサッカーはアメリカ同様盛んでない。


経済編集

スペイン韓国と同じ規模の経済力を有する。国民1人当たりのGDPは高く、豊かな先進国の1つと見なされる。石油・鉱物資源に富み、カナダ経済を大きく支えている。農業林業も盛んでIT産産業も発達しており、中でもAI研究やソフトウェア開発も得意とする。ソニー・サイバーコネクトツー・カプコン・バンダイ・コーエーなどの日本のゲーム会社もカナダ国内に事務所を設けたり、カナダのゲーム会社を買収したりして進出している。


歴史編集

起源編集

ファースト・ネーションやイヌイットの言い伝えでは、先住民たちは時の始まりからこの地に住んでいたとある。考古学的研究では北部ユーコン準州に2万6500年前、南部オンタリオ州には9500年前に人類がいた事が示されている。1000年にバイキングの一団が、ランス・オ・メドーに居住したのがヨーロッパ人の到来としては最初であるが、この植民地は短期間で放棄されている。1497年6月にイタリア人のジョヴァンニ・カボトがイングランドのために大西洋側を探検し、1534年3月にフランスのジャック・カルティエがこれに続いた。


ヨーロッパ介入編集

1603年6月に到着したフランスの探検家のサミュエル・ド・シャンプランは、1605年7月に最初のヨーロッパ人定住地をポート・ロワイヤル(現在:ノバスコシア州アナポリス・ロイヤル)に築いて1608年7月にケベックを建設し、これらは後にそれぞれアカディアとカナダの首都となった。1610年7月にイングランドはニューファンドランド島に漁業基地を設け、南部(今のアメリカ領)に13植民地を築いた。1688年4月に一連の北米植民地戦争が発生し、1713年2月にユトレヒト条約でノバスコシアがイギリスの支配下となり、1763年2月にパリ条約でカナダとヌーベルフランスの大部分がフランスからイギリスへ割譲された。

1763年10月に布告された宣言はケベックをヌーベルフランスから分離し、ケープ・ブレトン島をノバスコシアに加え、フランス系カナダ人の言語と信仰の自由を制限した。1769年5月にセント・ジョンズ島(現在のプリンス・エドワード・アイランド州)が独立した植民地となり、ケベックでの紛争を避ける為、1774年6月にケベック法が制定された。ケベックの領域が5大湖からオハイオ川まで拡大され、ケベックにおいてはフランス語とカトリックの信仰・フランス法が許可された。

これは13植民地の多くの住民を怒らせる事になり、アメリカが独立する動因となった。1783年9月のパリ条約によってアメリカの独立は承認され、5大湖南部がアメリカへ割譲された。戦後に約5万人の王党派がアメリカからカナダへ逃れている。1791年12月に植民地統治法が制定され、フランス語圏のローワー・カナダと英語圏のアッパー・カナダに分割されて各々が独自の議会を持った。


カナダ防衛戦編集

1812年戦争でアッパー・カナダとローワー・カナダは主戦場となり、カナダ植民地は宗主国のイギリス側に与して参戦した。アメリカ軍は兵力の乏しいカナダを容易に占領できると考えており、1813年4月に当時のカナダの首都であるヨーク(現在のトロント)を占領掠奪した。しかしカナダ民兵は寡兵ながらイギリス正規軍と協力して善戦し、1812年10月のクイーンストン・ハイツの戦い・1813年6月のストーニー・クリークの戦いなどでアメリカ軍を撃退して侵略を阻止した。やがてイギリスから援軍が到着し、1814年8月にワシントンD.C.が陥落して政府施設が焼かれるなど双方の被害が広がって講和に至った。このようなカナダ防衛戦は後年に渡って語り継がれ、イギリス系北アメリカ人に一体感をもたらした。1815年2月の終戦以降からは、イギリスとアイルランドからの大規模な移民が始まっている。1837年12月に責任政府を求める反乱が発生し、その後のダーラム報告では責任政府とフランス系カナダ人のイギリス文化への同化が勧告された。


成立編集

1840年7月に制定された連合法により、アッパー・カナダとローワー・カナダはカナダ連合に合併された。議会においては、フランス系・イギリス系カナダ人は共にフランス系カナダ人の権利復活の為に努力している。1849年4月にイギリス領北アメリカ植民地全土にて、責任政府が設置された。1846年6月にイギリスとアメリカがオレゴン条約を締結し、境界紛争が終結した。これによってカナダは北緯49度線に沿って西へ境界を拡大し、1849年1月にバンクーバー・アイランド植民地、1858年8月にブリティッシュコロンビア植民地が成立した。

1867年7月に憲法法が採択され、オンタリオ、ケベック、ノヴァスコシア、ニューブランズウィックが統合され、「カナダの名の下の1つの自治領」である連邦が形成された。1870年7月にマニトバ、1871年7月にブリティッシュコロンビア植民地とバンクーバーアイランド植民地(1866年8月に合併)、1873年7月にプリンスエドワードアイランド植民地はそれぞれ連邦に加入している。


近代化編集

保守党のジョン・A・マクドナルド首相は、萌芽期のカナダ産業を守るための関税政策を制定した。西部を開拓するために政府は3本の大陸横断鉄道に出資し、自治領土地法により開拓者のために大平原が解放され、そしてこの地域の治安維持のために北西騎馬警察が設立された。出資面でもっとも有名なものが、カナダ太平洋鉄道である。1898年6月に政府はユーコン準州を設置した。ウィルフリッド・ローリエ首相の治世では、ヨーロッパ大陸からの移民が大平原に定住し、1905年9月にアルバータとサスカチュワンが州に昇格している。


第一次大戦編集

1914年8月にイギリスの宣戦布告に伴い、カナダは自動的に第一次世界大戦に参戦した。志願兵を西部戦線へ派遣し、彼らは後にカナダ軍団の一部となった。その他にヴィミーリッジの戦い・その他の大きな戦いで重要な役割を果たしている。1917年5月に保守党のロバート・ボーデン首相が、フランス語圏ケベックの住民たちの反対にもかかわらず、徴兵制を導入して徴兵危機が発生した。1920年1月にカナダはイギリスとは個別に国際連盟へ加盟し、1931年12月のウエストミンスター憲章により、カナダの独立主権国として承認された。


第二次大戦編集

1939年9月にウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング首相は、イギリスの宣戦から1週間後に独自にドイツに対して宣戦布告して第2次世界大戦に参戦したが、カナダ軍がイギリスに到達したのは同年12月の事である。カナダ軍は大西洋の戦い・ディエップの戦い・ノルマンディーの戦いで大きな役割を果たし、ナチス・ドイツの打倒に貢献している。その後のカナダ経済は、戦争の需要による好景気に活気付いた。


戦後編集

1945年9月に終戦となった後、カナダは同年10月に発足した国際連合の原加盟国となった。この経済成長と自由党政権による一連の政策によって、新たなカナダ人のアイデンティティが創発され、1965年2月に現在のカエデの葉の国旗を採用した。1969年9月に2カ国語公用語が実施され、1971年10月にピエール・トルドー首相は多文化主義を宣言した。

国民皆保険制度・年金制度・学生ローンといった社会民主主義的諸制度も創設されたが、これらの政策については、ケベック州とアルバータ州が管轄権の侵害であるとして反対している。最終的には一連の憲政会議を経て、1982年3月にカナダ憲法成立が決定した。これによって「権利と自由憲章」が設けられ、カナダは完全な独立主権国となった。


先住民問題編集

ケベックでは革命によって重大な社会経済が変化し、州におけるナショナリスト運動が発生した。1970年10月に過激なケベック解放戦線によるオクトーバー・クライシスが発生し、1980年5月に連邦からの分離に関する住民投票が実施されたが拒否された。1995年10月に2度目の住民投票が実施されたが、50.6パーセント対49.4パーセントの僅差で拒否された。1997年5月に最高裁判所から州による一方的な連邦の脱退は違憲という判決が下され、交渉による連邦からの脱退を規定した法律が制定された。

1999年4月に政府はイヌイットの自治政府であるヌナブト準州を成立させ、ブリティッシュコロンビア州では土地問題でニスカ族との最終合意に達している。2008年6月にスティーブン・ハーパー首相は先住民を対象とした寄宿学校問題で、過去の政府の行いに対する謝罪をしている。


渡航編集

査証免除取極により3ヶ月以内の観光滞在であれば査証は不要だが、空路で入国する場合専用のウェブサイトからETA(電子渡航認証)が必要(1件につき7カナダドル)。

日本の外務省は危険情報はないがスリやひったくり、ギャング絡みの暴力事件に注意してほしいとのこと。


ヘタリア編集

ヘタリアのカナダについてはマシュー・ウィリアムズの項を参考のこと。


関連キャラクター編集



関連イラスト編集

カナダっこ世界ワンピース【06:カナダ】


関連タグ編集

国家 カナダ人

北米 北アメリカ G7

バンクーバー モントリオール

トロント カルガリー ケベック

イヌイット ハイダ

メイプル(サトウカエデ)

ホッキョクグマ オオカミ

ビーバー ヘラジカ サケ

カーリング

カルガリー・フレームス

エドモントン・オイラーズ

モントリオール・エクスポズ

モントリオール・カナディアンズ

オタワ・セネターズ

トロント・ブルージェイズ

トロント・ラプターズ

トロント・メイプルリーフス

バンクーバー・カナックス

ウィニペグ・ジェッツ

カナディアン・バックブリーカー セドナ

裂空の訪問者※舞台はバンクーバーがモデル。

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