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カナダ

かなだ

北米に位置する国家。G7の一員である。
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ヘタリアのカナダについてはマシュー・ウィリアムズの項を参考のこと。

概要

北アメリカ大陸北部に位置し、10の州と3の準州を持つ、連邦立憲君主制国家。首都はオタワ。
イギリス連邦加盟国であり、英連邦王国の一国である。
面積はロシアに次ぐ第2位の広さである。

政治

現在は隣国アメリカ合衆国との結び付きが強く、主な貿易相手であるが、歴史的には元宗主国であるイギリスとの結び付きが深く、公式ではイギリス王室のイギリス国王が国家元首であり、カナダにおいてはカナダ国王と扱われており、カナダ総督は国王の代理ということとなっている。
実質的な国のトップは、選挙により選出される連邦政府の首相である。

社会

一時、性表現関連に厳しい規制が敷かれていた。特に18歳未満の被写体が写った児童ポルノは単純所持禁止はもちろん、二次元も一切禁止となり、空港で18歳以下が掲載されているポルノ雑誌の持ち込みが見つかった場合、その場で逮捕されるケースもあった。

そのためか性犯罪が一時激増したが、あまりにも厳しい表現規制が憲法表現の自由に反するとして問題となり、芸術目的のものは所持が認められるなど基準が緩められたせいもあってか、また激減した。

文化

スポーツではアイスホッケーが国技である。またNHLはカナダを発祥としており、野球のメジャーリーグやバスケ(ちなみに考案者はカナダ人である)のNBAのチームがカナダにも本拠地があるなど、多方面にわたってアメリカ合衆国との関わりが深い。
なおアメフトに関しては似たような『カナディアンフットボール』という別競技が存在し、こちらの方が盛んで、宗主国発祥のサッカーはアメリカ同様盛んでない。

紛れもない超大国なのに……(涙)

面積の大きさが世界1位なのはロシア旧ソヴィエトも含む)、では世界2位は?と問われると、アメリカ又はチャイナと普通に間違えてしまう人たちが後を絶たない。

アメリカとチャイナもロシアと伍して、政治・経済・文化・スポーツ・軍事などの影響力が良くも悪くも圧倒的に強すぎるために常にド派手な存在で、世界中のニュースネタを独占しまくり、話題性にも毎日事欠かない有様である。

しかし、そんな超大国ビッグ3に比べると、カナダは面積の広さの割りにあらゆる分野であまりにも地味で話題性にも乏しく、島国なジャパンのほうがかえって目立って話題性でもジャパンにも負けている印象すらある。

しかしながら、世界6位はオーストラリア、世界5位はブラジル、世界4位はアメリカ、世界3位はチャイナ、カナダこそ世界2位の超大国であることをみなさんどうか忘れないでください!

関連イラスト

カナダっこ
世界ワンピース【06:カナダ】


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Canada カナダ人 北アメリカ 
バンクーバー モントリオール トロント
イヌイット ハイダ
G7
メイプルメープル) ビーバー
カーリング トロント・ブルージェイズ カナディアン・バックブリーカー 
赤毛のアン マシュー・ウィリアムズ カナディアンマン スーミ デッドプール(ウェイド・ウィルソン) ジャン・ジャック・ルロワ(JJ) コトネ (ポケットモンスター ハートゴールド・ソウルシルバー) セレナ (ポケットモンスター X・Y)

歴史

ファースト・ネーション(先住民)やイヌイットの言い伝えでは先住民たちは時の始まりからこの地に住んでいたとある。一方、考古学的研究では北部ユーコン準州に26,500年前、南部オンタリオ州には9,500年前に人類がいたことが示されている。

ヨーロッパ人の到来は西暦1000年にバイキングがランス・オ・メドーに居住したのが初めてであるが、この植民地は短期間で放棄されている。その後1497年にイタリア人のジョヴァンニ・カボト(ジョン・カボット)がイングランドのために大西洋側を探検し1534年にはフランスのジャック・カルティエがこれに続いた。

1603年に到着したフランスの探検家サミュエル・ド・シャンプランは、1605年に初めてのヨーロッパ人定住地をポート・ロワイヤル(現ノバスコシア州アナポリス・ロイヤル)に築き、1608年にはケベック を建てた。これらは後にそれぞれアカディアとカナダの首都となった。

ヌーベルフランスの植民地の中ではカナダ人(Canadiens:フランス系カナダ人)はセント・ローレンス川流域に、アカディア人は現在の沿岸諸州に集中的に居住している。フランス人の毛皮商人とカトリック宣教師たちは五大湖、ハドソン湾そしてミシシッピー川流域からルイジアナを探検した。毛皮貿易路の支配を巡ってフランスとイロコイ族の戦争が起こっている。

イングランドは1610年にニューファンドランド島に漁業基地を設け、南部(現アメリカ合衆国領)に13植民地を築いた。1689年と1763年に一連の北米植民地戦争が起こり、その結果、ユトレヒト条約(1713年)でノバスコシアが英国の支配下となり、七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)のパリ条約でカナダとヌーベルフランスの大部分がフランスからイギリスへ割譲された。

1763年宣言はケベックをヌーベルフランスから分離し、ケープ・ブレトン島をノバスコシアに加えた。これはまたフランス系カナダ人の言語と信仰の自由を制限した。1769年にセント・ジョンズ島(現在のプリンス・エドワード・アイランド州)が独立した植民地となった。ケベックでの紛争を避けるため、1774年にケベック法が制定され、ケベックの領域が五大湖からオハイオ川まで拡大され、ケベックにおいてはフランス語とカトリック信仰、フランス法が許された。

これは13植民地の多くの住民を怒らせることになり、アメリカ独立への動因となった。
1783年のパリ条約によってアメリカの独立は承認され、五大湖南部がアメリカへ割譲された。戦後におよそ5万人の王党派がアメリカからカナダへ逃れている。

一部の王党派のために沿岸諸州のニューブランズウィックがノバスコシアから分割された。ケベックの英語話者王党派のために1791年法が制定され、フランス語圏のローワー・カナダと英語圏のアッパー・カナダに分割され、各々が独自の議会を持った。

アッパーおよびローワー・カナダは米英戦争(1812年戦争)の主戦場となった。カナダ防衛は英国系北アメリカ人に一体感をもたらした。1815年より英国とアイルランドからの大規模な移民が始まっている。19世紀の初めには材木業が毛皮貿易よりも重要になった。

責任政府を求める1837年反乱が起こり、その後のダーラム報告では責任政府とフランス系カナダ人の英国文化への同化が勧告された。

1840年憲法法により、アッパーおよびローワー・カナダはカナダ連合に合併した。議会においては、フランス系および英国系カナダ人はともにフランス系カナダ人の権利の復活のために努力している。

1849年に英領北アメリカ植民地全土に責任政府が設置された。

1846年に英国と米国によるオレゴン条約が結ばれオレゴン境界紛争が終結した。これによってカナダは北緯49度線に沿って西へ境界を広げ、バンクーバー・アイランド植民地(1849年)、そして、ブリティッシュコロンビア植民地(1858年)への道が開かれた。

カナダはルパート・ランドと北極圏地域への一連の西部探検を行っている。高い出生率によってカナダの人口は急増した。一方で、英国からの移入は、米国への移出によって相殺されていた。特にフランス系カナダ人がニューイングランドへ移民している。

幾度かの憲政会議の後に、1867年7月1日、1867年憲法法が採択され、オンタリオ、ケベック、ノヴァスコシアそしてニューブランズウィックが統合され「カナダの名の下の一つの自治領」である連邦がつくられた。

カナダはルパートランドと北西地域を合わせたノースウエスト準州を統治することが前提とされている。
この地では不満を抱いたメティ(フランス系と先住民の混血)によるレッド・リヴァーの反乱が起こり、1870年7月にマニトバ州がつくられている。
ブリティッシュコロンビア植民地とバンクーバーアイランド植民地(1866年に合併)は1871年に、プリンスエドワードアイランド植民地は1873年にそれぞれ連邦に加入している。

保守党のジョン・A・マクドナルド首相 は萌芽期のカナダ産業を守るための関税政策を制定した。西部を開拓するために政府は3本の大陸横断鉄道に出資し(もっとも有名なものがカナダ太平洋鉄道である)、自治領土地法により開拓者のために大平原が解放され、そしてこの地域の治安維持のために北西騎馬警察が設立された。

1898年、ノースウェスト準州でのクロンダイク・ゴールドラッシュの後、政府はユーコン準州を設置した。自由党のウィルフリッド・ローリエ政権下ではヨーロッパ大陸からの移民が大平原に定住し、アルバータとサスカチュワンが1905年に州に昇格している。

1914年、英国の宣戦布告に伴いカナダは自動的に第一次世界大戦に参戦し、志願兵を西部戦線へ派遣した。彼らは後にカナダ軍団の一部となり、ヴィミーリッジの戦いやその他の大きな戦いで重要な役割を果たしている。

1917年には保守党のロバート・ボーデン首相がフランス語圏ケベックの住民たちの反対にもかかわらず徴兵制を導入して徴兵危機が起こっている。1919年にカナダは英国とは別個に国際連盟へ加盟した。

1931年、ウエストミンスター憲章によりカナダの独立が承認された。

1940年にニューウエストミンスター市内を行進するブリティッシュコロンビア連隊。第二次世界大戦では110万人のカナダ人が軍務に付き、1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦では重要な役割を果たした。

1930年代の大恐慌にカナダ国民は大いに苦しめられ、このため社会主義政党の協同連邦党がアルバータとサスカチュワンで福祉制度を実施しており、これは「カナダの医療の父」として知られる1940年代から1950年代のトミー・ダグラス知事の先駆けとなるものであった。

1939年、自由党のウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング政権は英国の宣戦から7日後の9月10日に独自に対独宣戦布告をして第二次世界大戦に参戦したが、カナダ軍が英国に到達したのは同年12月のことである。カナダ軍は大西洋の戦い、ディエップの戦い、ノルマンディーの戦いで大きな役割を果たしてナチス・ドイツ打倒に貢献している。カナダ経済は戦争需要による好景気に活気づいた。

1945年の終戦後にカナダは国際連合の発足時加盟国となった。

この経済成長と自由党政権による一連の政策によって新たなカナダ人アイデンティティが創発された。
1965年に現在のカエデの葉の国旗が採用され、1969年には二カ国語公用語が実施、1971年には多文化主義が宣言されている。

国民皆保険制度、年金制度、学生ローンといった社会民主主義的諸制度も創設されたが、これらの政策については地方政府、とりわけケベックとアルバータが管轄権の侵害であると反対している。そして最終的には、一連の憲政会議を経て、1982年に英国カナダ法の改正によるカナダ憲法成立が決まり、「権利と自由憲章」がつくられカナダは完全な主権国家となった。

同じ時期にケベックではケベック革命によって重大な社会経済の変化が起こり、州におけるナショナリスト運動が生まれていた 。更に過激なケベック解放戦線によるオクトーバー・クライシスが1970年に引き起こされた。10年後の1980年に連邦からの分離に関する住民投票が行われたが拒否され1989年には憲法改正も試みられたが失敗している。

1995年に二度目の住民投票が行われたが、50.6%対49.4%の小差で拒否された。1997年に最高裁から州による一方的な連邦脱退は違憲であるとの判断が下され、交渉による連邦からの脱退を規定した法律が定められた。

カナダは1950年代から1990年代にかけて数多くの国連平和維持活動に参加しており、2001年にはNATO主導のアフガニスタン紛争にも派兵している。一方で、イラク戦争への参加は拒否した。

国内の先住民問題ではオカ、イペルウッシュ、ガスタフセン湖で土地問題を巡り様々な法廷闘争と幾度かの暴力沙汰が起き、1999年にカナダ政府はイヌイットの自治政府であるヌナブト準州をつくり、ブリティッシュコロンビア州では土地問題でニスカ族との最終合意に達している。

2008年には首相が先住民を対象とした寄宿学校問題で過去の政府の行いに対する謝罪をしている。

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