概要
帝国主義諸国による植民地政策。勢力圏を拡大して世界の分割を策すること。
主に1900年頃のドイツ帝国の外交政策を指す場合が多い。ドイツ語では「Weltpolitik」。
ドイツ帝国の「世界政策」
帝国主義の時代にて世界政策は、特にドイツ帝国の「植民地獲得に関する列強諸国のあらゆる決定に参加できる」という主張として理解されていた。
1897年12月6日の帝国議会にて、当時新任されていた外相が「誰も日陰に追いやりたくはないが、我々もまた陽のあたる場所にいたい」と述べたことで公式化。
ヴィルヘルム2世の治世において、こういった主張は帝国建設の延長線上にあるものと解されたのである。
世界政策を政治的に表現したのは、海外領土の獲得ではなく、1896年にイギリスと対立していたトランスヴァール共和国(南アフリカ)大統領ポール・クリューガーへの祝電、1905年・1911年に起きたモロッコ支配を巡るフランスとの衝突事件、イギリスとの海軍軍拡競争などの対外的に要求・主張する姿勢に現れていた。
このような世界政策によって列強の輪の中でドイツ帝国は孤立していくことになる。
そして1906年以降イギリスのドレッドノートの出現によって海軍では2位に追いやられ、1907年の英露協商・三国協商が完成してしまい、ドイツ帝国の世界政策は失策として終わったのである。