概要
今を遡る事、40数年前。1981年9月23日。この日は新日本プロレスの「ブラディ・ファイト・シリーズ」最終戦だった。試合が行われたのは、今は無き田園コロシアム。この日は、新日―いや、プロレスファンにとって、忘れる事の出来ないカードが組まれたのだ。
その日のセミファイナルである「アンドレ・ザ・ジャイアント対スタン・ハンセン」と言う当時の「ガイジン」トップレスラー同志の頂上決戦が行われた。どちらも2m級の巨体を誇り、そして双方「俺がナンバーワンだ」と言う意地とプライドがぶつかりあった、超ド迫力の試合が展開された。
試合の流れ自体をつぶさに見ていくと、決して大技が乱舞するというド派手な展開ではなく、アンドレがアームロックなどの関節技を駆使して対ハンセン戦の常道とも言うべき「左腕殺し」を仕掛けていき、ハンセンがこれを耐えては猛然とラッシュを仕掛けていく、という「極めてオーソドックスなプロレス」の筋立て。とはいえ、並の相手なら体格差だけで軽くあしらえるアンドレがハンセンをプロレスラーとしてリスペクトし「きちんとレスリングを組み立てる」という点と、これもまた並の相手なら軽いラッシュだけでも蹴散らせるハンセンが打撃と投げで全力をぶつけてなおアンドレがこれを余力をもって受け止めてしまうという点が、「普通じゃない2人が普通のプロレスをした」ことで普通じゃない空気を作り上げたこの試合の特徴。
試合中盤には、何とハンセンがアンドレにボディスラムと言う世界でも数えるほどの快挙(この出来事は当時のプロレス番組「ワールドプロレスリング」の実況の古舘伊知郎が興奮して「持ち上げたーっ!!ボディースラム!!世界で5人目!!世界で5人目!!」と叫び倒した事でも有名)を成し遂げる。最後は両者リングアウトの引き分けとなったが、互いが納得しない上にお客さん達もヒートアップ。会場全体が異様な熱気に包まれ、異例の「延長戦・無制限一本勝負」へとなだれ込んだ。
延長戦は、ハンセンがいきなりアンドレを「アイリッシュ・ホイップ《所謂『一本背負い』》」で投げ飛ばすが、すぐにアンドレが体格差を活かし、「2階からのヘッドバット」などの痛め技でペースを握る。しかしアンドレの必殺技ジャイアント・プレスが空振りに終わると、ここぞとばかりにハンセンの宝刀ウエスタン・ラリアットが炸裂しアンドレが場外に転落してボルテージは最高潮に。最後はアンドレがレフェリーのミスター高橋に対して攻撃し反則負けの裁定という(※1)、結果だけを見れば締まらない幕切れとなった。だが、ハンセンも興奮冷めやらず暴走状態にあり、これを止めに入った若手のセコンド陣に対し至近距離からのラリアットを見舞うなど(※2)、観客に試合結果を意識させない大暴れをしながら退場した。
(※1)ウェスタン・ラリアットで場外に叩き落された後、アンドレはどさくさ紛れにマネージャーのアーノルド・スコーランからこっそり手渡された青のアームサポーターを装着してリングイン。ミスター高橋はそのサポーターの使用を認めず、執拗に注意した事にアンドレが怒り、ミスター高橋をロープに振り、戻って来た所を豪快なラリアットを見舞って倒してしまったのが事の顛末。因みにミスター高橋はアンドレのラリアットをまともに喉に受けてしまい、文字通り病院送りにされた上に、その時のシーンを見た「ワールドプロレスリング」解説者の桜井康雄(元東京スポーツの記者であり、プロレス評論家)からは笑われる(実際に『ぷっ…、ハハハハハ!!』という桜井氏の笑い声が集音マイクに入っている)という憂き目に遭っている。
(※2)ウェスタン・ラリアットを再び見舞って若手レスラーの一人を失神させているが、実はその被害者は当時まだ無名だった頃の前田日明だった。
さらに
この日の興業は他にも「タイガーマスク対エル・ソラール戦における、脱臼事件」や、メインイベントに殴りこんだ「はぐれ国際軍」のラッシャー木村の「こんばんは事件」など、後のプロレスファンが忘れる事の出来ない珍事件も同時に発生していたのである。
この一戦を見ていた7、8人程の観客が観戦中、ハチに刺されたが、それらの観客はそのまま医務室に行かず試合を見届けたという逸話がある。
共に壮絶な戦いぶりを見せたアンドレとハンセンであったが、ハンセンは終生アンドレを偉大なプロレスの大先輩として尊敬していた。共に新日本プロレスを去ってから10年後、両者は全日本プロレスで再会と同行に喜び、よくプライベートでは会食に出掛けていた。その際には決まってこの田園コロシアムの一戦を話題に挙げ、御互いに相手を称え飽きる事無く語り合ったという。