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ジョー樋口

じょーひぐち

「ジョー樋口」は日本のプロレス黎明期に活動したプロレスラーで、元レフェリー。

概要編集

本名・選手時代のリングネームは「樋口 寛治」(ひぐち かんじ)。「ジョー」はグレート東郷が付けた愛称。

1929年1月18日生まれ、神奈川県横浜市出身。

法政大学卒業。俳優の樋口隆則(旧芸名・菊池隆則)は息子。


海外とも取引していた卸問屋の息子として生まれる。

少年時代から柔道の道に進み、終戦後は進駐軍に柔道を教えていた。(この時、英語も習得。)

1955年、山口利夫らが立ち上げた全日本プロレス協会(現在の全日本プロレスとは無関係)で活動する。

1957年9月に崩壊すると、吉村道明とともに日本プロレスに移り選手として活躍、1960年に引退。いったんプロレスから離れた後、1963年から外国人係兼通訳として日プロに復帰。

料理好きを生かして、遠征中に選手が滞在する旅館の厨房を借り、洋食を作っては来日外国人選手に喜ばれたばかりか、日本プロレスの総帥・力道山までも自分にも食べさせろと言わせたほど。

1966年より沖識名らの後釜を期待されてレフェリーも兼務する。

1972年に日本プロレスを離脱したジャイアント馬場が旗揚げした全日本プロレスに旗揚げ戦に参加、日本人のNWAオフィシャルレフェリーの代表・大御所的存在となる。


スキンヘッドと青のコスチュームがトレードマークで、よく足を使い、観客を飽きさせないレフェリングは後の後輩に影響を与えている。

1980年代前半には、試合中に選手の乱闘に巻き込まれて失神したり、悪役レスラーの反則に気付かないのもおなじみとなる。


1997年3月1日に日本武道館で挙行された三冠ヘビー級選手権試合(三沢光晴 vs. スティーブ・ウィリアムス戦)を最後にレフェリーを引退、外国人係に専念。

1999年のジャイアント馬場の死去を受け、東京ドームで行われた「ジャイアント馬場引退記念大会」にて特別レフェリーとして来場した後、全日本プロレスを退社するが、2000年に三沢光晴らが全日本を退団し、プロレスリング・ノアが旗揚げすると、要請に応えて監査役に就任。

翌年に、発足したノアのタイトル・GHCのタイトル管理委員長にも就任。

2010年9月上旬より東京都内の病院に入院・治療を受けていたが、11月8日午前5時38分、肺腺がんのため81歳で死去。


没後、長年のプロレス界への功績から、日本では2010年度プロレス大賞特別功労賞、アメリカでは2017年12月にレフェリーとして初めてアメリカのテキサス・プロレス殿堂入りを果たした。

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