1926(大正15)年9月19日、岐阜市出身。
身長183センチ、体重108キロ(全盛期)。
帝国海軍志願兵、自動車会社勤務を経て近畿大学に入学、相撲部へ所属。学生横綱になるなど活躍。
1954(昭和29)年、大阪に拠点を置いていた全日本プロレス協会(後の全日本プロレスとは別組織)に入団しプロレスデビュー。3年後の57年4月、駿河海を破って第2代日本ジュニアヘビー級選手権王者になる。
全日本プロレス協会崩壊後は力道山の誘いで日本プロレスへ移籍。力道山、豊登、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎らスター選手のパートナー(=脇役)としてアジアタッグ王座を計10回も獲得するなど、主にタッグ戦線で活躍。
またその隠れた実力を見込まれ、大物外国人選手来日初試合の相手をよく務めた。日本で初めてカール・ゴッチのジャーマン・スープレックスを受けた人物である。
自分より大きな相手外国人選手に対し毎試合のように血だるまにされながらも果敢に立ち向かうその姿から、「火の玉小僧」のニックネームでファンに親しまれた。
また看板技のローリングクラッチホールド由来で「回転エビ固めの吉村」とも呼ばれた。
力道山死去後も新エースの馬場・猪木を支え、団体中心選手のひとりとして活躍。しかしその二人が離脱し、日本プロレスが崩壊した1973年に惜しまれつつ現役を引退。
その後は自ら事業を行う傍ら、古巣の近大相撲部で後進の指導にもあたり、元大関朝潮(4代目)などを育成した。
2003年2月15日死去。享年76。