概要
1981年、堅実なファイト・スタイルの中堅レスラー高千穂明久が、転じて『東洋の神秘』の異名を持つ、“怪奇派”ヒールレスラーとなった。
当初はその場限りのギミックのつもりだったが、般若の面を付けた連獅子姿、鎖帷子を纏った忍者スタイル、日本刀を携えた鎧武者姿等のいかにも日本的な入場コスチュームに加え、毒霧を吹き上げる、両手に持ったヌンチャクを凄まじい勢いで振り回すなどのパフォーマンスが人気を博し、シングル・タッグ含めて数多くのタイトルを獲得するなど、まさに破竹の勢いとなった。
東洋特有の要素を押し出した不気味なムードは後の日本人レスラーにも非常に大きな影響を与え、「カブキの息子」としてデビューしたザ・グレート・ムタや『プロレス版メジャーリーガー』ことTAJIRIなど、東洋系ギミックのヒールレスラーの元祖となっている。
「Hey! my son...look me father!? I'm tough I'm tough!! My son listen to me!! listen to me...next time next time! I kill you!」
(1993年6月、“息子”グレート・ムタとの二度目のシングルマッチの後で行われたマイクアピール)
プロフィール
本名 | 米良明久(めら あきひさ) |
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別名 |
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誕生日 | 1948年9月8日 |
出身地 | 宮崎県延岡市 |
身長 | 180cm |
体重 | 110kg(全盛時) |
来歴
デビュー~全日本時代
1962年、知立市(愛知県)に転居。水泳や柔道に打ち込んだ。
1964年、日本プロレスに入団。10月31日、石巻市立石巻小学校特設リングで山本小鉄を相手にデビュー。当初は本名でリングに上がっていたが、芳の里から宮崎県の高千穂峡に因んだ「高千穂明久」のリングネームを与えられた。殴り合いに強いためよく道場破りの相手をさせられた。
1970年、アメリカへ武者修業に出される。ロサンゼルス地区でタカチホとして活動。
1971年、デトロイト地区へ転戦。師匠・芳の里にあやかりヨシノ・サトと名乗りヒール・ターン。ミツ荒川のパートナーとなりNWFにも進出。
1972年、崩壊の危機にあった日本プロレスに呼び戻され帰国。
1973年3月8日、ジョニー・バレンタインからUNヘビー級王座を奪取。この試合が『NET日本プロレス中継』(NET)の最後の放映試合で、4月20日をもって日本プロレスは興行活動を停止した。高千穂はUNヘビー級王座を返上し、日本テレビと3年契約を結び、全日本プロレスへ派遣される。オーストラリアへ遠征し、ヒト・トージョーのリングネームでヒロ・トージョー(サムソン・クツワダ)とタッグを組み、NWA豪亜タッグ王座を奪取。帰国後もクツワダとのタッグで活動する。
1976年、正式に全日本プロレス所属選手となる。国際プロレスのマイティ井上をパートナーに『世界オープンタッグ選手権』に出場。
1977年、韓国へ遠征。覆面レスラー、スーパーXを名乗り、大木金太郎のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦した。その後は渡米し、ミスター・サト、タカチホなどのリングネームで南部や中西部のNWAのテリトリーを転戦。
1981年、フリッツ・フォン・エリックがプロモーターを務めるダラス(テキサス州)のNWAビッグタイム・レスリング(翌年からWCCW)を主戦場とする。マネージャーのゲーリー・ハートのアイディアで顔面に歌舞伎役者風のペイントを施したギミック・レスラー「ザ・グレート・カブキ」となり、スター選手として活躍。
1983年、全日本プロレスから帰国要請があり、アメリカでのギミックをそのままに凱旋帰国。歌舞伎ギミックは日本でも大人気となった。
その後はアメリカ(WCCW)と日本(全日本プロレス)を行き来する形となったが、1985年にWCCWが新日本プロレスと提携したため待遇が悪くなる。
1990年7月30日、全日本プロレスを退団。
SWS入り~引退
1990年8月、メガネスーパーによって設立されたSWSに入団。天龍源一郎が率いる『レボリューション』の所属選手兼ブッカーとして活動する。派閥争いが激しくSWSは迷走。
1992年6月19日、SWSが内紛により分裂し興行活動を停止。6月28日、天龍派がWARを設立し、カブキも設立メンバーに名を連ねる。越中詩郎率いる平成維震軍のWAR参戦を機に、WAR勢も新日本プロレスに参戦。カブキは新日本プロレスに移籍し平成維震軍入り。
1993年、WCWに「カブキの息子」としてデビューしたグレート・ムタ(武藤敬司)との『親子対決』が実現。
1994年、WWFの『ロイヤルランブル』にカブキとして参戦。
1995年、新日本プロレスとの契約が満了。新東京プロレスに参戦。
1997年、IWA・JAPAN所属となる。
1998年6月、現役引退を表明。ムタの代理人である武藤敬司が「パパと一緒に試合がしたい」とコメント。8月の新日本プロレス大阪ドーム大会でカブキとムタの「親子タッグ」が実現した。7月にはケンドー・ナガサキと漫画『プロレス・スターウォーズ』作中の架空のタッグ・チーム「オリエンタル・ミステリー・タッグ」を結成し、後楽園ホールのメインイベントに出場。
引退後は、飯田橋(文京区)で居酒屋「串焼き・ちゃんこ かぶき」(後に「BIG DADDY 酒場 かぶき うぃず ふぁみりぃ」)を経営。その傍ら、独立系のプロレス団体でレフェリーを務めたり、若手レスラーのコーチを引き受けたりしていた。
2008年、「昭和プロレス第2弾興行」でグレート小鹿と組み、ヤマハ・ブラザーズ(星野勘太郎、山本小鉄)と対戦。
2009年、大阪プロレス6人タッグマッチに出場。その後も全日本や新日本、その他単発のプロレス興行にスポット参戦した。
2016年、経営する居酒屋を飯田橋から小石川(文京区)へ移転。旧店舗は元気美佐恵が引き継ぎ、居酒屋「ねばーぎぶあっぷ。」となる。
2017年12月22日、プロレスリング・ノアの後楽園ホール大会で引退試合『KABUKI THE FINAL』が行われ、正式にプロレスラーを引退した。
得意技
ギミック・演出という見た目に派手な部分が語られる事が多い一方で、あまり大技を乱発せずにねっとりとした間のとり方で試合を進める事で有名。
自著やインタビュー等では「大技を連発して自己満足で終わってはいけない」「観客が見入って感動してくれるように試合を作っていく」と自身のプロレス観を語った。
- カブキは毒霧をプロレスに持ち込んだ元祖として知られている。主に演出として使用する事が多く、試合中に攻撃として使う事は多くなかったが、ムタが反則攻撃としての側面を強調した。
- カブキがケリー・フォン・エリックに放ったカウンターの後ろ蹴りを見たマネージャーが "This is thrust kick!" と叫んだことから名付けられた。英語の発音は「スラースト・キック」だが、覚えにくいので日本語では「トラース・キック」となった。つなぎ技として使われる事も多いが、カブキの場合は間を重視した展開から急に切れ味鋭い技を繰り出すフィニッシュホールドとして使用していた。
アッパーブロー
- 元ボクサーのサイクロン・ネグロから伝授された。右腕を大きく振りかぶってから左拳で相手の顎・頬を打つという独特のモーションから繰り出される。
正拳突き
- 正拳突きと言っても空手とは違い、頭上で固めた右拳を相手に向けて振り下ろす所謂フィスト・ドロップである。セカンドロープの上を綱渡りのように歩いた後に相手の喉・胸を狙って打ち下ろすというフィニッシュホールドとして多用していた。
竹とんぼ式ラリアット
オリエンタル・クロー
- 狙う場所は様々だが、カブキのアイアンクロー全般がこう呼ばれる。指の第一関節にだけ力を入れて曲げるという仕草を度々繰り出しており「類まれな握力を持つカブキだからこそ出来る指の動き」という設定。