プロフィール
来歴
幼少期に父が失明し、小学3年から行商で家計を支え、中学卒業後缶詰工場に就職。
17歳の時一旗揚げたいという思いだけを持って函館駅に向かい、函館駅の青函連絡船の待合室で九重親方(第41代横綱・千代の山)の後援会の人に声をかけられ一緒に上京。
大相撲・出羽海部屋に入門するも1963年、相撲界を離れ日本プロレスに入団。
同年5月9日(10月13日説もあり)、駒角太郎戦においてデビュー。
当初は本名で試合をしていたが1964年に小鹿雷三のリングネームに変更。
1967年に後に「極道コンビ」のパートナーとなる大熊元司とともに海外修行で渡米。
南部のテネシー地区やジョージア地区などで活動、テネシーでは同年10月、同地区版のNWA世界タッグ王座を奪取。
1968年に大熊がホームシックで帰国した後も、フロリダ、デトロイト、ロサンゼルス地区などでシングルプレイヤーとして、卑怯なヒール戦法を駆使して憎まれ役で活躍。
ロサンゼルスではミル・マスカラスと抗争を繰り広げ、マスカラスと金網デスマッチを行ってNWAアメリカス・ヘビー級王座を獲得もした。
1970年9月に凱旋帰国、アメリカで名乗っていたグレート小鹿をリングネームにした。
日本プロレス崩壊後の1973年6月、全日本プロレスに移籍(正式には1976年3月31日までは、日本テレビと3年契約を結んだ上で全日本へ派遣、1976年4月1日付で全日本正式所属選手に。)
1973年9月よりテキサス州アマリロ地区へ再渡米し、カン・フー・リー(Kung Fu Lee)のリングネームで活躍、テリー・ファンクからNWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座を奪取している。
1976年3月26日、復活したアジアタッグ王座に大熊元司と組んで獲得、名タッグチーム「極道コンビ」でアンダーカードの一時代を築くとともに、ジャイアント馬場のセコンドや運転手、プロモーター業の兼任もしていた。
1988年7月31日、函館市千代台公園陸上競技場特設リング大会で引退(1度目)。この時自らプロデュースしている。
引退後、地元函館で事業を始める傍らプロモーター業を続け、後に天龍源一郎に請われてWARの営業部長に就任。またタレント活動も開始。
1994年12月、NOW崩壊の憂き目を見ていたケンドー・ナガサキや登坂栄児(NOW社長→大日本・統括部長→現・社長)らとともに、横浜市に大日本プロレスを設立し、社長に就任。
(因みに、天龍の『WAR』とナガサキの『NOW』は1990年設立の『SWS』から分かれたプロレス団体。)
観客動員に苦戦したことから、1995年に現役復帰。兵隊服、『料理の鉄人』『ゴルゴ13』などのコスプレをして「コスプレ社長」として注目。
その後若手が育つと自らリングに上がらなくなり、実業家として飲食店2店舗を開業もした。(現在は閉店。)
2011年7月、大日本プロレス社長を退任(登坂が新社長に就任)、代表権のない会長に就任。
2019年現在もリングにはたまに立っている。
外部リンク
グレート小鹿ブログ「小鹿注意報!」(2006年(平成18年)3月25日 - )