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概要編集

大相撲初の外国人横綱(後に帰化)。東関部屋。アメリカ合衆国ハワイ州出身で帰化前の名前はチャド・ローウェン・ジョージ・ハヘオ

幕内優勝11回とアメリカ出身の力士としては輝かしい実績を残した後、オファーもあってK-1に転向するも良い結果は残せなかった。

その後はプロレスに転向し、全日本プロレスなどで活躍、興行プロデューサー等としても活躍していた。


大相撲時代編集

当初、曙本人は大相撲への入門の意思はなかったものの、本来スカウトに目をつけられていた弟に身代わりにされる形で大相撲へ入門したとされる。

彼の入門時期はいわゆる花の六三組と呼ばれる昭和63年3月に初土俵を踏んだグループで以下の面々が同期である。

  • 貴乃花光司(横綱)
  • 若乃花(貴乃花の兄、横綱)
  • 魁皇博之(大関、通算100場所勝ち越し、通算最多勝利)

大相撲時代は203cmという大きな体格とリーチを活かした突き押し(突っ張り)が武器であり、横の動きに弱かったものの立ち回り自体は上手く、粘りはあった。

突き押しの回転力とパワーは相手に何もさせず土俵外へ突き飛ばす程で、今でもファンの間では語り草である。

ただし、後のK-1時代にも指摘される事になる脚の細さが原因か取りこぼしがあり、全勝優勝は成し遂げられず、さらには体重増加と怪我により膝を痛めてしまい、これが引退に繋がる故障ともなった。

立ち居地としては悪役扱いであったとされる。

1993年3月場所に空位であった横綱に昇進、2001年1月場所まで在位。

余談だが、1998年の長野オリンピック開会式にて、土俵入りを披露した。

また、幕内で10回以上対戦して負け越している力士が一人もいない。(本割ではいない、優勝決定戦も含めるならば現・大鳴戸親方である大関出島)という状況であった。

なお通算成績は幕内優勝11回と、アメリカ出身力士としては輝かしい実績を残し、たいていの有名力士には勝ち越している。

ちなみに平成の大横綱と名高い貴乃花は引退会見で「ライバルに相当する存在はいたか?」との質問に対し、「ライバルを意識した事はない」としながらも「あえて1人挙げるとするならば、曙関である」とコメントしている。

奇しくも、2人の対戦成績は21勝21敗の五分(なお優勝決定戦を加えても25勝25敗と五分)であった。

引退後は東関部屋にて曙親方として指導を行っていたが、2003年に親方を引退する。


格闘家時代編集

引退後はオファーがあったことによりK-1で総合格闘家としてデビューした。しかし、2003年のデビュー戦でボブ・サップに妻子の前であっさりと敗北した彼は影でマケボノと呼ばれるようになった。その後も戦績はあまり振るわず(2006年まで出場し成績は1勝8敗)、実質引退状態であった。

また、総合格闘技にも出場したが戦績は振るわなかった(2004年から2006年までで0勝4敗、この中にはボビー・オロゴンとの対戦も含まれる)

「マケボノ」と呼ばれたのは相撲時代の雄姿との落差が大きかったところもあり、既に30代後半という年齢、体重過多、そもそも競技ルールが自身の得意スタイルと合致していなかった事も不振の原因としては挙げられている。


プロレスラーとして編集

2005年にはプロレスに参入。武藤敬司を師匠と仰いでおり、プロレスをメインとして、全日本プロレスなどで大暴れした。 タッグ戦での活躍が印象深いと言われる。

2007年からはハッスルに参戦。ヒール側の高田総統率いる高田モンスター軍所属でリング名は「モンスター・ボノ」。ギミック上はグレート・ムタの毒霧を秘所に受けたインリン様から生まれた怪物の子供という設定である。子供という設定であるため「ボノちゃん」と呼ばれることが多かった。その後ベビーターン&成長により「ボノくん」に改名。さらに覚醒したボノは「グレート・ボノ」へ進化する。

その他、ハッスル以外にも諸々のギャグプロレスに参加した経歴がある。

2012年にはZERO1でKAMIKAZEを破り、デビュー6年7ヶ月にして初のシングル王座、世界ヘビー王座を獲得。

最近では興行プロデューサーとしても活動を始めており、自身主催の"曙道"を開催した。

2013年9月に全日本プロレスに正式入団後に初の大会となる「王道トーナメント」で新必殺技のヨコヅナインパクト(パイルドライバー)を引っ提げて参戦し、見事優勝。

10月27日の両国国技館でのタイトルマッチで諏訪魔に勝利し初の三冠ヘビー級王者となる。

2014年4月22日に肺炎のため入院。その後は体調が戻らず5月30日に王座を返上したしたものの、4度にわたって王座を防衛した。

7月27日、8月16日の後楽園ホール大会で復帰することと、全日本プロレス運営会社の取締役に就任することを発表。

2015年3月22日に吉江豊氏と組んで秋山準&大森隆男組から世界タッグ王座を奪取。

4月には全日本春の祭典チャンピオン・カーニバル優勝、5月には3冠ヘビー級王者潮崎豪を新必殺技であるヨコヅナファイナルインパクトで破り、3冠王者へと返り咲いた。

2015年11月に全日本プロレスを退団、取締役も辞任。

2015年12月4日、自らのマネジメント事務所、並びにプロレスラーとしての所属団体として株式会社「王道」の発足を発表。

2016年4月20日、後楽園ホールにてプロレス興行「王道 THE BEGINNING」を開催。

2017年4月11日、福岡県内で行われた試合後に体調の異変を訴え、病院に救急搬送された。

右脚蜂窩織炎と感染症もあってさらに心臓に負担がかかり、緊急搬送されてから37分間の心停止に見舞われたために重度の記憶障害が後遺症として残り、210㎏あった体重が140㎏台まで落ちた。



花田虎上との再会編集

闘病中の2018年9月29日に放送されたTBS系番組の「今夜解禁!ザ・因縁」で、かつての大相撲時代の最大のライバルの一人であった3代目若乃花こと花田虎上氏と再会。花田氏は「(記憶障害の所為で)僕ってことが分からないかも」と心配していたものの、花田氏を見た曙はうっすらと笑顔を見せ「お疲れさまです」と反応。握手をしながら花田氏が「分かる?」と問うと、曙は「分からないわけないじゃない!」と即答し、「元気ですか?」と花田氏への気遣いまで見せた。


この時の曙は現役当時の記憶も戻ってきた模様で、「(若乃花は)冷たいもん」「負けたくなかった」と振り返り、20代の頃、曙が休日に花田を六本木に飲みに誘ったとき、花田氏が待ち合わせをすっぽかしたことも覚えていた。また、このときのことを花田氏が「遊びに行きたかったけど、情が入ると戦うのにダメだと思ったから」だと説明すると、曙は表情を輝かせた。


そして、花田氏が曙の手を握りしめながら「一緒に土俵に上がりましょうよ、両国で」と語りかけると、曙は「その前に飲みに行こう」と提案。花田氏は「いいですね、行きましょう」と、現役時代のすっぽかしのリベンジを約束した。この曙と花田氏の再会にツイッターでは「若乃花と再会した途端に目に光が戻ったのが、かわいらしくて切なかった」「これは奇跡だ、やばい感動した」「涙が止まらない」などと、感動の声が相次いでいた。


訃報編集

2024年4月6日、急性心不全のため54歳で死去。花田氏との約束を果たすことは永遠に出来なくなった。

なお、平成時代に昇進した横綱では初の物故者となった。またタッグを組んだことのある吉江氏も、曙が亡くなる1ヶ月前の3月10日に50歳で急逝している。


人物編集

非情に豪快な人物で「糖尿病でインスリン治療を受けてるのにジンロを27本開けて飲んだ」「経営するステーキ店に来た約20人のホステスに1人につき1万円札を手渡し、しまいには『男たちも並べ』と男性スタッフ全員にも1万円を配った」「長期入院中も『俺は飲みに行く』と何度も病院からの脱走を試み、巨大なオムツを付けた不自由な体で浜亮太に『またK-1のリングに上がりたい』『プロレスの団体を立ち上げたい』と夢ばかりを語っていた」などの逸話が聞かれる(参考)。


トリビア編集

映画テルマエ・ロマエⅡ」には、彼をモチーフにした「アケボニウス」なる人物が登場する。一説には本人ではないかとも言われている。



関連項目編集

相撲 ファンタ ハワイ 全日本プロレス

ラプソーン:容姿が似ていると一部で言われている

ヒシアケボノ:曙が名前の由来の競走馬。

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