初代若乃花幹士(第45代横綱)
初代若乃花幹士(わかのはな かんじ)、は1928年3月16日生まれ。青森県弘前市出身。
本名は花田勝治(はなだ かつじ)。
後の大関貴ノ花利彰は実弟、横綱若乃花勝(後述)・貴乃花光司は甥に当たる。
後に「土俵の鬼」と呼ばれ、栃錦とともに「栃若時代」を築き上げた。幕内最高優勝は10回。
また自身が横綱に昇進する直前に長男がちゃんこ鍋をひっくり返し、全身火傷で亡くなるという不運にも見舞われている。
引退後は年寄・二子山を襲名し、花籠部屋から独立して二子山部屋を立ち上げ、後の横綱隆の里や2代目若乃花(後述)、実弟の大関貴ノ花、大関若嶋津などを育て上げた。
1988年に日本相撲協会の理事長に就任。1993年に弟の当時・藤島親方と年寄株を交換し、藤島部屋と二子山部屋を合併。自身は停年を迎えた。
2010年9月1日、腎細胞癌のため死去。享年83(満82歳没)。
2代目若乃花幹士(第56代横綱)
1953年4月3日生まれ。青森県南津軽郡大鰐町出身。「花のニッパチ組」の一人。
本名は下山勝則(しもやま かつのり)。
大関までは若三杉(わかみすぎ)と名乗っていた。幕内最高優勝は4回。
引退後は年寄・間垣を襲名し、間垣部屋を立ち上げたが、三役以上の力士が出ることはなかった。
2007年に脳出血で倒れ、一命は取り留めたが車椅子での生活を余儀なくされる。
翌年に弟子が大麻で逮捕され、理事職を辞任。
部屋持ち時代末期は部屋経営に支障が出ており、弟子達の食糧の予算にも困る有様で、弟子達が出稽古先でちゃんこを食べて飢えを凌ぐ有様であった。この時期の弟子としては後に伊勢ヶ濱部屋に移籍した照ノ富士(当時若三勝を名乗っていた)が含まれた。
2013年に全親方が年寄名跡の証書の提出を求められたが、証書を預かっていた当時の現役の関取と証書の折り合いがつかなかったため提出を断念し、日本相撲協会を退職した。
2022年7月16日、肺癌のため死去。享年70(満69歳没)。
若乃花勝(第66代横綱)
→現在の芸名の花田虎上を参照されたし。
大ノ海久光(初代の師匠)
若いころ幕下時代まで若ノ花の名を名乗っており、初代は「オヤジが初代」と常々公言していた。