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貴ノ花

たかのはな

貴ノ花とは、大相撲の四股名。この記事では、「角界のプリンス」と呼ばれた元大関貴ノ花利彰について記述する。
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曖昧さ回避

  1. 貴ノ花利彰…1970年代に活躍した元大関。下記貴乃花若乃花の父親。本項で詳述
  2. 貴ノ花光司…貴ノ花利彰の次男。後の第65代横綱貴乃花光司。

生涯

入門前

1950年(昭和25年)2月19日生まれ。本名は花田満(はなだ・みつる)

北海道室蘭市出身。

長兄は「土俵の鬼」と呼ばれた第45代横綱初代若乃花幹士。


10人兄弟の末っ子として誕生。初代若乃花とは22歳も離れていた

最初は水泳で名を挙げたが、1965年に既に引退して二子山親方となっていた兄・若乃花に入門。

二子山はこの際、「兄弟の縁を切る」ことを条件に入門を許可した。


入門から関脇まで

「弟だからと甘やかしてる」と周囲に思われる事を嫌った二子山は、苛烈と呼べる程に満をしごいた。

入門から3年後の1968年3月場所で十両昇進。9月場所で十両優勝、11月場所で新入幕を果たす。

1969年は5月場所で十両に転落するも、11月場所で2度目の十両優勝を果たし、幕内に復帰。


十両時代には、当時日大相撲部員だった輪島大士(後に第54代横綱)と取組を行ったがまさかの敗北。プロ、それも現役関取がアマに負けるという屈辱に、二子山は「おい、黒い廻し持ってこい!(お前は関取失格だ!)」と吐き捨てた程激怒したと言う。昭和の半ば頃までは、アマチュアのトップクラスでも大相撲の三段目と互角、幕下には敵わないというのが定説だったため、当時のこの定説を考えれば二子山が激怒したのは無理からぬことであった。


1970年9月場所で初の三役となる西小結で9勝6敗で殊勲賞も獲得、次の11月場所では東関脇に昇進するも7勝8敗で負け越す。

一度は前頭まで転落するも、小結に復帰した1971年5月場所では8勝7敗で殊勲賞を獲得。この場所の5日目に横綱大鵬に勝利。大鵬はこの取組を最後に引退を表明し、結果的に引導を渡すこととなった。

この頃の貴ノ花は、小結・関脇として5場所連続で勝ち越すものの、その5場所はすべて8勝7敗か9勝6敗という、勝ち越すのがやっとという成績が続いた。

東関脇だった1972年1月場所は6勝9敗と負け越し前頭に転落したが、続く3月場所では、横綱北の富士から生涯唯一の金星を奪うなど10勝5敗で久々の2桁勝利。

その後、東小結で迎えた5月場所では11勝4敗で技能賞を受賞。西関脇に昇進した続く7月場所では12勝3敗で敢闘賞と技能賞を受賞。東関脇となった9月場所では10勝5敗で敢闘賞を受賞し、初三役から2年を掛けて大関への昇進を果たした。


大関時代

端正な顔立ちに加え、元横綱の弟という血筋の良さから、「角界のプリンス」と呼ばれ、絶大な人気を博した。

当時の人気ぶりを知る相撲ファンは、「息子達が兄弟揃って横綱になっても、父の人気には及ばなかった。」と語っている。


肝心の相撲だが、1974年に北の富士と琴櫻の2横綱が引退し、次期横綱の最有力候補と言われた貴ノ花だったが、横綱昇進を阻んだ2人の力士がいた。それが、輪島と北の湖だった。

輪島とは上述の通り十両時代からの因縁の相手で、更には、昇進に手間取っている間に自身より3歳年下の北の湖が一気に横綱昇進を決め、ここに「輪湖時代」が到来する事となった。


それでも1975年3月場所に13勝2敗で、悲願の幕内最高優勝を決めた。しかし、綱獲りが懸かった次の5月場所は9勝6敗に終わり、更に続く7月場所は0勝11敗4休と一度も勝てず。

9月場所では12勝3敗で2度目の優勝を果たしたが、続く11月場所は8勝7敗に終わる。

結局貴ノ花の幕内優勝はこの2回に終わり、横綱昇進は終ぞ果たせなかった。


その後は1977年1月場所に12勝3敗、3月場所に13勝2敗と好成績を残した場所があったものの、良くても10勝5敗、9勝6敗や8勝7敗といった大関として物足りない成績が増えた。

この頃には弟弟子にあたる若三杉が第56代横綱に昇進し2代目若ノ花を襲名。更に2歳年上の三重ノ海も横綱に昇進した。


30歳となった1980年、この頃から貴ノ花限界説が囁かれるようになる。この年の3月場所の10勝5敗が貴ノ花最後の2桁勝利となった。

11月場所の3日目、伸び盛りの関脇千代の富士に一方的に敗れたことで、貴ノ花は引退を決意したという。この場所は8勝7敗でこれが自身最後の勝ち越しとなった。

そして翌1981年1月場所。この場所で大関在位50場所目の節目を迎えたが、6日目(蔵玉錦戦)を終えて2勝4敗と調子に乗れず、7日目に現役引退が発表された。7日目の相手だった前頭4代目朝潮太郎(後に大関昇進)の勝ち名乗りの際には、観客達が引退を惜しんでいた。

引退を決めた際、師匠二子山からは、「これからはまた兄弟に戻ろう。」と労いの言葉を掛けられた。

なお、貴ノ花が引退を決めた1981年1月場所は千代の富士が14勝1敗で初優勝を決め、その意味でも世代交代を印象付けた場所となった。


現役引退後

引退した1981年より年寄・鳴戸を襲名し二子山部屋の部屋付き親方となる。翌年藤島に改名し、二子山部屋から独立し、藤島部屋を起こす。

親方として、大関貴ノ浪や関脇安芸乃島といった関取を育て、更に2人の息子花田勝と花田光司が入門し話題になった。

1993年には師匠で兄の二子山が定年退職したため、吸収合併される形で二子山部屋を引き継いだ。そして、二人の息子は後に揃って横綱になり二子山部屋の絶頂期を迎えたが、この頃から二子山は健康状態に苦しむようになった。


そして2005年に入ると、二子山の健康状態は著しく悪化した。

現役時代からヘビースモーカーとしても知られていたため、これが直接の原因となった。

また、未成年だった頃に飲酒もし、更に息子達の確執から来る心労も重なったため、それも寿命を縮める要因になった。


2005年(平成17年)5月30日、口腔底癌のため死去。まだ55歳の若さだった。


部屋持ち時代は人格者と伝えられていたが、死後の報道では「怖い親方」という一面が強調され、弟子の貴闘力がYouTubeで当時を振り返ったところによると頭ごなしに怒ることも多かったようである。


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大相撲 大関

貴乃花…2代目は次男

若乃花…初代は兄で師匠、2代目は弟弟子、3代目は長男。

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