来歴
1940年5月29日、樺太敷香町生まれ、北海道川上郡弟子屈町出身。本名は納谷幸喜(脚本家の三谷幸喜の名は彼にちなむ)。
父親はウクライナ出身。ウクライナ人名はイヴァーン・マルキャノヴィチ・ボリシコ。
1960年11月場所(九州場所)から1971年5月場所(夏場所)中の引退時まで横綱を務めた。
同世代中最強の成績を残し、幕内優勝回数32回は2015年初場所にて白鵬に破られるまで、半世紀近くも金字塔として輝き続けた大記録である。
当時、「子供の好きなものは巨人、大鵬、卵焼き」(※当時巨人は9連覇期間中)と言われるほどの絶大な人気があり、ライバルの横綱柏戸と並び立った時期は「柏鵬時代」と呼ばれ、相撲人気の黄金時代を築いた。なお、本人は自身もアンチ巨人で、裸一貫で横綱となった自分と一流選手を集めて結果を残した巨人のみならず、「大人の好きなものは大洋、柏戸、水割り」というフレーズもあってバカにされたような感じがしたため、このフレーズが大嫌いだったという。
巨人は嫌いだったが、巨人V9時代の看板選手である王貞治とは、同じ接骨院に通っていた縁で知り合い、親友の間柄だった。1940年5月生まれの同い年、日本国外にルーツがある境遇など共通項があり、気が合ったらしい。
ちなみに、イケメンとしても有名で銭湯では大鵬の取り組みの際、女湯が空っぽになったほどだったといわれるほど女性人気があった。
引退後は一代年寄「大鵬」として定年まで協会に残り、定年後相撲博物館長を務めた。
大ぶりの明太子を肴に一晩で1斗飲み干すことはざら、「なぜ大関戦を前に俺が寝なくてはいけないのだ」と嘯いて夜通しどころか朝まで飲み明かすほどの酒豪で知られたが、飲み過ぎが祟ったのか1977年に30代の若さで脳梗塞で倒れ、その後も体調不良に悩まされる事が多かった。2013年1月19日に72歳で死去。新聞にも大きく取り上げられ、多くの人がその死を悼んだ。
貴闘力に部屋を継がせるべく婿養子に迎えていたが、貴闘力が野球賭博のかどで角界を追放されたため養子縁組を解消した。ただ、養子縁組解消後も貴闘力の事は「いつでも帰っておいで」と気に掛けており、貴闘力自体も大鵬の臨終に立ち会った。にもかかわらず貴闘力はYouTubeで大鵬のことについて頭の古い親方だったというような批判をし、確執をにじませていた。
「大鵬の孫が力士に」と注目されている関取の王鵬ら納谷兄弟は、貴闘力の息子たちである。
大鵬ほどの角界のビッグネームがなぜギャンブルに熱中していた貴闘力に娘をやったかというと、貴闘力と結婚した大鵬の三女は高校を中退してから家族の手に余っていたという話があり、要は三女の体裁を整えるためであった。