「仏陀」「釈迦」とも呼ばれ、後者は釈迦牟尼(しゃかむに、シャーキャ・ムニ शाक्यमुनि [zaakya-muni](Śākyamuni))の略。
[釈迦(釋迦、しゃか、 梵名:シャーキャ、शाक्य zaakya](Śākya)
名前 | 釈迦(釋迦、しゃか、 梵名:シャーキャ、शाक्य [zaakya](Śākya) |
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世没 | 紀元前463年? - 紀元前383年 |
本名(俗名) | |
パーリ語形 | ゴータマ・シッダッタ Gotama Siddhattha |
サンスクリット語形 | ガウタマ・シッダールタ गौतम सिद्धार्थ [Gautama Siddhārtha] |
漢訳 | 瞿曇 悉達多(くどん しっだった) |
生涯
現在のネパールや、国境を隣接するインドウッタル・プラデーシュ州北東部に相当する地域にあったコーサラ王国を治める釈迦族の王子として生まれる。
シッダールタは「目的を達成した者」という意味だが、これは生まれながらの名前である(彼の誕生に立ち会ったアジタ仙が占いにより「将来世界を統治する帝王となるか人類を救う仏陀になる」という結果を予見し、それが生まれながらに定められた者としてこの名前をつけたという)。
父はシュッドーダナ、母はマーヤー。
伝承によれば、シッダールタは彼女の右の脇腹から生まれ、すぐに7歩歩んだ後に天地を指して「天上天下唯我独尊」と宣言したとされている。
しかし生みの親のマーヤー夫人は産後まもなく亡くなってしまう。
その後夫人の妹であるマハー・プラジャパティーがシュッドーダナの妃となり、ゴータマの継母となった。
手塩にかけ大切に育てられ王宮内の家臣や召使にも恵まれた生活をしていたが、外界はそうではなかった。
伝承によれば釈迦は四門出遊、すなわち王宮を出て四つの門で病人・老人・死者・修行者の姿を目の当たりにし世の無常について更に深く思いつめるようになる。
もともと内気な性格であった彼に対し父王は、クシャトリア階級の王子として世俗における生活に留まって欲しいと考え美女をはべらせたり賑やかな音楽を奏でさせたりもしたがあまり効果はなかった。
ヤショーダラーと結婚し息子ラーフラをもうけた彼は、とうとう出家に踏み切ることになった。子を産んではならないと度々説法しており、何か思うところがあったのだろう。
彼は目的を達成するまでは実家には戻らないと決め、したがう従者をも帰らせ一人で修行の旅路を進んだ。しかし当時の宗教者・修行者・聖者達の説く教えや修行はゴータマを満足させなかった。
長時間の息止めや断食などの苦行も究めたが、究極の悟りには無益と判断するに至る。
そしてスジャータという娘から粥をもらって食し苦行で失われた体力を回復した彼は新しい道を模索する。ブッダガヤと呼ばれる土地で菩提樹の下に座して瞑想をはじめた彼は真理を悟り、仏陀となったと仏教伝承は伝えている。
悟りを開いた彼は新しい宗教である仏教――本人にとっては過去の聖者(過去七仏など)も体得したところの真理(ダルマ)を人々に説き始める。
彼の教えを拒絶する人もいたが他宗教の聖者や権力者にも改宗者・帰依者を輩出し、かつての継母や妻・息子も仏教徒となった。このようにして仏教徒の共同体と修行者のつどいであるサンガは拡大していった。しかし実家である釈迦族は、ヴィドゥーダバ王によって(理由としては身から出た錆ではあるが)滅ぼされてしまう。
80歳の時にチュンダという信徒がもてなした食べ物にあたってしまう。
チュンダを責めないよう弟子たちに言い聞かせ最後の説法をした後、亡くなった。
葬儀の後に残されたゴータマの遺骨(仏舎利)は八つに配分され火葬で残った遺灰とあわせ十のストゥーパ(仏塔)にまつられた、とされる。
教え
輪廻転生を説き、そこからの脱出を説いた。
ここまでは一般的なインド宗教と同じだがブラフマンとアートマンとの同一性を悟ることで行うというバラモンの教えとは異なり、(不変不滅の)アートマンの存在を認めない立場をとった。
「アートマンは存在しない」という言い方こそしなかったものの、『梵網経』では当時の修行者・バラモンたちの間に流布していた様々なアートマン論をあげ解脱をもたらさないものとして位置づけている。この時点での釈迦のスタンスを「非我」といい、大乗仏教の時代になると強調されて「無我」という呼び名になった。
解脱をもたらすものではないにせよ、釈迦はそれが説かれたヴェーダを本当の意味で実践している(と彼が考える)「真のバラモン」に対しては深い敬意をはらっている。
バラモン教(ヒンドゥー教)のカースト制度を否定し、人の価値は生まれによるのではなく行いによると説いた。
呪法についてはヴェーダに「効果」があることは認めるがそれを修行者が用いることは許さず、呪術や占い・護摩・呪文で生計をたてることを強い言葉で戒めている(但し例外としてパリッタ(自身の身を守るための護身呪)の使用だけは容認した)。
このため後代にヒンドゥー教や土着信仰から占い・呪文・護摩を取り入れた密教においてはこれは単なる「呪術」ではないと強調され、使用にあたっても空性(「空」)への理解や菩提心を基盤とし、正式な師について学ぶという制限がつけられている。
仏像については実際のところ明確にこれを否定した伝承は無い。
教え方
相手の素質や学習度を見て教えをとく対機説法が基本。
例えば在家の信徒にいきなり縁起のような難解な教えを説くのではなく、輪廻や善行によって天界に生まれることを説く。また「毒矢のたとえ」で知られるように、教えても修行の役に立たない事はあえて伝えないという手段もとる。
基本的におだやかで他の意見・他宗教の教えを激しい言葉で否定・非難することはないが、はじめからナメてかかってくる相手は例外。
『阿摩晝経』では釈迦がクシャトリア階級であることでナメくさった態度をとり、己の出自を誇るバラモン青年に対しあえて相手の土俵に乗った上で論破する様子が描かれている。
死後の扱い
説話集「ジャータカ」では釈迦の過去世についての設定が拡張され、大乗仏教に先立って「菩薩」の概念も発達した。
大乗仏教が興るとさらにいろんな二次創作を付け加えられた。大乗仏教における扱いは釈迦如来を参照。
本を残さなかったのでその後弟子達が阿含経典(アーガマ)をつくったのだが、口伝で伝えられたうえに年月日の概念が無かったため、どこまで事実かは分からない。アーガマだけでもかなり膨大な量であり、全部説いたとは考えにくい。
大乗経典は数百年後ぐらいの人々が作ったものとみられており、日本仏教各派は後代の作であることは理解しつつも信仰とある程度折り合いをつけているところが多い。
至言
以下は仏教の原始教典『法句経(ほっくぎょう)』(ダンマパダ、パーリ語:Dhammapada)にある、彼の直説とされる記述の一部。
- 「苦しみを恐れる者は悪をなすなかれ、苦しみを厭う者は悪をなすなかれ。悪をなす者は苦を逃れることなし」
- 「身体を慎め、言葉を慎め、心を慎め、あらゆることに慎むべし。修行者はこれによりすべての苦から逃れ得る」
- 「ただ非難されるだけの人、ただ賞賛されるだけの人は、過去にもなかったし、未来もないだろう。現在にもいない」
- 「小悪といえども軽んずるなかれ。水滴のしたたりて水がめを満たすがごとく悪を積む者は必ず災いに満たさるべし」
- 「悪をなし、報いの現れざるをもって、報いなしと思うなかれ。罪の報いの現れるや必ず苦しみを受く」
- 「善の報いの熟さざるとき善人でも災いを見る。善の報いの熟せるときには必ず幸福を見るべし」
- 「掃除は心の塵を払う」
- 「何ものも『自分のもの』ではない、と知るのが知恵であり、苦しみからはなれ、清らかなる道である」
- 「もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、『愚者』だと言われる」
- 「自己に打ち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行いをつつしみ、自己をととのえている人、このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない」
- 「心は動揺し、ざわめき、護り難い。英知ある人はこれを直くする_弓師が矢の弦を直くするように。」
- 「心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この心を制する人々は、死の束縛から逃れるであろう」