解説
主に東南アジア・南アジアなどの、南の地域に伝わった仏教であることから『南伝仏教』とも呼ばれる。
『テーラワーダ仏教』『テーラヴァーダ仏教』とも呼ばれることもある。
「テーラ」は「長老」、「ワーダ」は「教え」を意味する。「上座部仏教」という表記にある「上座」とは十年以上の修行を積み、集まりの場で「上座(かみざ)」に座る立場の僧侶の意である。
釈迦の生前のおける仏教には、出家者に対する戒律は多岐にわたって定められていたが、釈迦の死後に仏教が他の地域に伝播すると、当初の戒律を守ることが難しい地域などが発生してしまう。
戒律の変更に関して、釈迦は生前に重要でない戒律は、サンガ(出家修行者)の同意によって改めることを許していたが、どの戒律を変更可能な戒律として認定するかという点や、戒律の解釈について意見が分かれ、これが大乗仏教(北伝仏教)との分離のきっかけとされる。
特徴
上座部仏教では、出家者の戒律(具足戒)を守る僧と、彼らを支える在家信徒の努力によって、釈迦の教えを純粋な形で保存してきたとされているが、各部派の異同を等価に捉えており、仏教学者の立場からは、上座部は部派仏教時代の教義と実践を現在に伝える唯一の宗派であると評価されている。
僧侶
上記の理由により、上座部仏教が信仰される国において、自力救済を目指し修行する僧は、在家者たちにとっては自分たちに代わり悪行を避ける営みに専念する特別な存在として敬われており、生涯に一度は必ず出家させる風習が存在し、『出家至上主義』と呼ばれることがある。
大乗仏教と異なり、女性の僧侶(尼僧)はいない。もともと尼僧とそのグループ「サンガ」は存在したが、断絶してしまった。
新しく尼僧を任命できるのは同じ尼僧たちによるサンガだけなため、男の僧侶しか居ない現在において「上座部仏教の尼僧」は存在できない。
しかし僧のように修行する女性仏教徒たちはおりタイでは「メーチー」ミャンマーでは「ティラシン」と呼ばれる。
出家と在家の中間に位置するブラフマチャーリ(女性形はブラフマチャーリニー、「清道尼」)は釈迦の時代にも存在していた。上座部の女性修行者はこちらに含めることもできるだろう。
経典
大乗仏教では、釈迦のみではなく後代の弟子たちの仏説ごとに仏典が作られたが、上座部仏教ではパーリ語の三蔵(パーリ三蔵)が継承されている。
歴史上の釈迦が話していたのは「マガタ語」とされ、パーリ語とは近縁の別言語とされるが、テーラワーダの伝統的見解としては両者は同じとされる。
パーリ三蔵についての注釈は古シンハラ語で編まれ、伝承されてきたが、5世紀の僧侶ブッダゴーサによりこの古注もパーリ語に直されている。
また、上座部仏教の仏典は「読む」書物というより、声を出して「詠む」書物であり、声を介し仏典を身体に留める伝統が培われ、仏典の継承も口授によって行われるため、戒法の継承は文字経典を求めるのではなく、戒や教説を体得した僧を招く形で行われる。
大乗仏教との共通点と差異
教義においては、限りない輪廻を繰り返す生は「苦しみ」であり、この苦しみの原因は無明(『法(ダルマ)』を理解していない無知であること)によって生じる執着にあるとして、無明を断ち輪廻から解脱する(悟りを開く)ために最も効果的な方法とされるのが、戒律の厳守や瞑想による修行により、八正道を実践することしている。
この点は大乗仏教と同様であるが、上座部仏教では、釈迦によって定められた戒律と教え、悟りへ至る智慧と慈悲の実践を純粋に守り伝えていく姿勢を根幹に据え、古代インドの俗語起源であるパーリ語で記録された共通の三蔵である上述した『パーリ仏典』を依拠とし、多様性のある大乗仏教と比べ一貫している特徴がある。
仏像や仏画については、大乗仏教のように多様な種類はなく、釈迦と彼以前に悟りに至った7人の仏陀を含む過去七仏、後述の二十五仏の一人である燃燈仏のものが存在する。
パーリ経典の一つ『仏種姓経』ではさらにそれより前の仏たちを含む過去二十五仏について言及される。
また大乗仏教の菩薩として有名な弥勒菩薩は阿含経にも登場し、釈迦の次にこの世界で仏となることが予言されている。
固有名を持つ仏陀として上座部仏教で認められるのはここまでである。
勧善懲悪論では、大乗仏教が「勧善」で念仏・真言などを重視することに対して、上座部仏教では「懲悪」を重視し、戒律を守ることで我執を取り去ることに重きを置いている違いがある。
大乗仏教の場合、『他力本願(仏が他者に働きかける力によりあらゆるものは修行により浄土へ辿り着ける)』の思想に見られるように、出家せずとも修行や生き方次第で、死後に浄土に転生して修行する等して悟ることができるという宗派もある。
一方、こうした概念は阿含経(最古の初期仏教経典集)のみ重んじ、阿含経のみを最上とする上座部仏教では採用されない。
上座部仏教では『自力作善』が重んじられており、それ故に必ず出家して修行を積まなければならないと考えられている。
習俗
インド神話の神々を寺院や祠に祀る慣習があり、大乗仏教の天部信仰のような様相を呈している。
祠には土着の精霊も祀られる。ただし、あくまでブッダ像だけを安置する、という例も多い。
タイにはプラクルアンという仏陀や聖者、ガネーシャといった神の小像や絵を封入したお守りがある。こちらも大乗仏教における香合仏、懐中仏と似ている。
呼称について
かつて、大乗仏教を信仰する修行者たちの中で、上座部仏教を始めとした部派仏教は、出家者しか悟りに導かれない寛容の無い考えであるとして、「ヒナヤーナ」(漢訳では「小乗仏教」)と揶揄して呼んでいた。
阿含経に基づく部分を「小乗」と呼ぶのは大乗仏教の伝統的見解であり、日本など漢訳大乗仏教圏において使用される事が多い。チベット大乗仏教でもダライ・ラマの著作などで使用例が確認できる。しかし、やはりこの呼称は批判用語であるため、上座部信徒たちと共に集まる場では決して使われなくなっている。
なお、チベット仏教では「チベット仏教の基準で教典を『小乗』『大乗』『密教』に分け、小乗→大乗→密教の順番に学習を行ない、小乗の過程を終えていない者は大乗を学べず、大乗の過程を終えていない者は密教を学べない」という規約・慣習が有り、チベット仏教においては「小乗」とされるものは、劣ってはいるが必ず学ばねばならないもの、という位置付けとなっている。
また、大乗仏教で「小乗」と呼ばれているのは部派仏教の中でも特に「説一切有部」と呼ばれる、かつては一大勢力だったが、現在では系譜が途絶えている宗派の場合も有り、上座部仏教が大乗仏教で言う「小乗」なのかは「文脈による」「解釈による」と考えた方が良い。