概要
生い立ち
本名は小畑敏満(おばた としみつ)。
少年時代から体格に優れて主に柔道で活躍していたが、角界からは既に注目されていて多くの相撲部屋からの勧誘があったが女将が手編みの靴下を送ってくれた三保ヶ関部屋に中学1年生ながらも入門(中学は墨田区立両国中学校に転校)して1967年1月場所に初土俵となった。
現役時代
初土俵後、中学卒業時の時点で既に幕下になっており17歳11ヶ月で十両に昇進と驚異的な強さでスピード出世して「北の怪童」と呼ばれるようになった。そして1972年1月場所にて当時史上最年少の記録となる18歳7ヶ月の若さで新入幕となる。
以後も順調に出世して1974年1月場所に初優勝して大関となり同年7月場所後に21歳2ヶ月という現在も破られていない史上最年少の記録で横綱に昇進した。
1985年1月場所に引退するまで幕内優勝は24回達成し、横綱在位は史上2位の63場所となる。
ライバルとなる力士は数多く存在したが、特に最大のライバルである第54代横綱輪島には優勝回数こそ上回るものの21勝23敗と僅かに負け越しており二人が争った70年代後半を「輪湖時代」と呼ぶ。
引退後
引退後は一代年寄北の湖として三保ヶ関部屋から独立する形で北の湖部屋を創設し、元幕内の厳雄(現:山響親方)や北太樹(現:小野川親方)らを輩出した。
2002年に相撲協会の理事長に就任し多くの活動を行ってきたが、数多くの角界の不祥事にも直面して2008年に弟子も関与した大麻問題の責任を取る形で理事長を辞任した。
一時は役員待遇委員にまで降格したが2012年に再び理事長職に復帰、相撲協会を財団法人から公益法人に移行させたが次第に病気が悪化して2015年11月場所中の11月20日に享年62歳で死去した。
余談
- 現役時代の全盛期は圧倒的な強さを持って存在感があったが、人気面ではライバル輪島や大関貴ノ花らの方に軍配が上がり逆に彼らを破る北の湖は憎らしいほど強いと評され(また、投げ倒したりした相手力士に一切手を貸さず、即座に背を向けて勝ち名乗りを挙げた所も多くのファンから「太々しい」「傲慢だ」と反感を買っていた)(※)、当時の嫌われ者を揶揄した「江川・ピーマン・北の湖」という言葉が残る。
- (※)但し、この行動については北の湖本人は「相手に失礼。同情をかけられたようで可哀想でしょう」、「自分が負けた時に相手から手を貸されたら屈辱だと思うから、自分も相手に手を貸すことはしない」と記者からのインタビュー等で明確に説明していた(但し全くとは言わず、たまに手を貸す場面の映像も残っている)。そうした彼の人柄をよく知る角界の関係者達の間では誠実な力士として高い評価を受けていた。
- 優勝決定戦は8戦中3勝5敗と意外に分が悪い。
- また、殆どの力士との対戦では大きく勝ち越してはいるものの、大関の4代朝潮との対戦成績は7勝13敗とかなり分が悪く、北の湖本人は朝潮の攻めは計算が出来ず、「何故そうなったのかが分からない」と零す程に苦手としていた。これには……、
1・朝潮のゆっくりした仕切りに、北の湖の気持ちが焦らされた(時間的に見ると、普通の力士の倍以上掛かっている)。
2・引き技・いなしを得意とした朝潮に思い切って出て行けず、そこを朝潮に攻められた。
朝潮の引き技に相撲勘が働きにくかった。
3・高見山との稽古で身につけた朝潮のぶちかましが、横綱をも後退させるほど強烈だった(実力的な面での見解)。
4・朝潮の顔を見ると思わず笑いそうになりそれを堪え切れず負けてしまう(ビートたけしの発言)。
等の要因が作用して結果に現れたと推察される。
- 現役時代は豪快な人物というイメージが根強かったが、後年の記事によると私生活では臆病な小市民、おとぼけキャラの面も多々見られたという。