概要
北海道旭川市出身(生まれは北海道網走郡美幌町)。本名、竹澤勝昭。
少年時代は野球をしていたが旭川に巡業に来ていた横綱千代の山のスカウトを受けて千代の山のいる出羽海部屋に入門し1957年1月場所に初土俵を踏んだ。
現役時代
1963年3月場所で十両に昇進し1963年11月場所では史上3人目の十両での全勝優勝を達成して翌場所の新入幕を決め、新入幕の1964年1月場所では新入幕力士としては新記録となる13勝を挙げ敢闘賞を受賞した。年内に関脇まで昇進し1966年9月場所に置いて大関まで昇進している。
1967年に九重親方となっていた元横綱千代の山が独立して九重部屋を開いた際に出羽海部屋から九重部屋に移籍し、移籍まもない1967年3月場所に初優勝を成し遂げた。その後は稽古嫌いの性格や遊興にふける事もあってしばらく芳しい成績を挙げる事が出来なかったが、入門時の恩人の死去もあって稽古に打ち込むようになり69年11月場所・70年1月場所で連続優勝を達成し横綱に昇進した。
同時に横綱に昇進した玉の海(大関までは玉乃島)は対戦成績が互角のライバルでかつ親友同士であり1970~71年は交互に優勝して北玉時代と呼ばれた。しかし玉の海は1971年10月11日に急逝し、北玉時代は短期間に終わる。
72年以後北の富士は2度優勝しているが、玉の海の急逝によるショックに体調不良、輪島・貴ノ花・高見山ら次世代の力士の台頭もあって不振の場所や休場が続き、1974年7月場所をもって現役を引退した。
引退後
現役引退後は年寄・井筒を襲名して井筒部屋を興し、1977年にかつての師匠であった九重親方(千代の山)が亡くなった後は九重部屋と合併して九重親方となり、千代の富士・北勝海の両横綱ら多くの関取を育てた。
千代の富士引退後は千代の富士に九重部屋を譲り陣幕親方として九重部屋の部屋付き、その後同じ弟子である北勝海の八角部屋に移籍した。相撲協会では理事として審判部長や広報部長を歴任したが、1998年に理事選の候補から外された事から相撲協会を退職、以降四股名の「北の富士勝昭」名義でNHK専属の大相撲中継の解説者として活動をしていた。相撲協会を出た後も和服に袖を通して粋な姿を見せてくれることも多かった。
日頃から自由奔放な人柄が評判で、言葉を選ばないストレートな表現が非常に特徴的なお方である。一方で間違いは素直に認めて言い訳をしないという潔いところもある。
2023年春場所からは病気療養のため解説業をお休み。2024年の秋場所終了後に体調を崩して入院、治療を続けていたが11月12日に死去した。享年82。
北の富士の死去によって、三重ノ海(第57代横綱・1948年生まれ)が最年長となり、戦前・戦中生まれの歴代横綱は全員この世を去った。
その他
- 十両で全勝優勝を達成した力士に対して北の富士が個人的に賞を贈る「北の富士」賞があり2006年3月場所に北の富士以来46年振りに十両全勝優勝を達成した把瑠都に贈られた。ただし2014年9月場所に栃ノ心が全勝優勝を達成した際は個人的な資金面での事情で受賞が見送られた。
- 1965年には横綱の大鵬、柏戸と共に拳銃密輸事件に加担して書類送検されている。その他、当時の時代背景もあったであろうが、素行面では朝青龍ばりの不良エピソードに事欠かなかった。
- 現役時代は派手な私生活で「現代っ子横綱」または「プレイボーイ横綱」と呼ばれた。また1970年9月場所から翌年3月場所まで4場所続いて11勝4敗の成績を収めた事で「イレブン横綱」とも呼ばれている。
関連人物
出羽海部屋
- 出羽海親方(第7代):入門時の師匠。元横綱常ノ花寛市(第32代横綱)。
- 出羽海親方(第8代):先代出羽海親方死後の師匠。元前頭出羽ノ花國市。
- 佐田の山:第50代横綱。兄弟子の一人で九重部屋へ移籍した後に佐田の山を破り初優勝した。
九重部屋
- 九重親方(第11代):第41代横綱千代の山。入門時は兄弟子で自身をスカウトし、九重部屋創設後に付いて行き師匠となる。その死後は部屋を引き継いだ。
- 千代の富士:当初は弟弟子で第11代九重親方の死後に弟子となる。
- 北勝海:弟子。
- 孝乃富士:弟子。引退後は本名の安田忠夫の名でプロレスラーとなる。
- 巴富士:弟子。
- 富士乃真:弟子。
- 千代大海:千代の富士の弟子で、北の富士にとっては孫弟子に当たる力士。当時入門した彼を北の富士は期待していた。
ライバル
- 玉の海:51代横綱・玉の海正洋。北の富士は彼を「島ちゃん (横綱昇進前の四股名「玉乃島」から)」と呼び、玉の海からは「北さん」と呼ばれるほど親しいライバルだった。