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概要編集

1976年4月29日生まれ、北海道千歳市生まれ、大分県大分市育ち、本名:須藤龍二(旧姓・廣島)、千代大海龍二


少年時代のあだ名は「ブッチャー」。高校受験に失敗し、中学卒業後、鳶職を経て九重部屋入門。


5歳で死別した父親は五輪候補になり掛けたほどの元柔道選手で、父譲りの体格と格闘センスは天性のものであったが、中学まで様々な柔道や空手などスポーツをやりつつも長続きはしなかった。

しかしそんな身の入っていない状態ですら市や県レベルで好成績を取るなど才能の片鱗は当時からあった。

小学校高学年から不良になり始め高校生と喧嘩して投げ飛ばしたり、中学生では喧嘩相手を求めて四国まで行くなど昭和の番長漫画のような喧嘩生活を送っており、九州内の他県ヤンキー業界でも「大分の龍ニ」として知れ渡っていたという。当時佐賀県在住で同じ歳のはなわの耳にも「裏拳1発で20m吹き飛ばす」と言う噂が入っていたため、後に双方が有名になった後TV番組で当時のエピソードをはなわに公開されている。


入門までの経緯には諸説ある。自身の引退直後に朝日新聞が掲載した記事によると、中学卒業後に始めた鳶職を3ヶ月で投げ出して悪友5、6人とアパートでシンナーを吸引していたところを母に見つかって家に連れ帰され、家に帰ってから母に心中を仄めかされたところ、それまで薦められても嫌がっていた相撲を取ろうと「千代の富士に電話をしてくれ」と母に頼み、1992年10月に既に九州入りしていた元千代の富士の九重親方に遭いに行くこととなったという。

一方で九重部屋継承後の『Number Web』の記事によると、中学2年生の頃から学校に行かず1人暮らしを始め、恩師である空手の師範が就職の世話をして鳶職になったが、3年ほどするとSPになりたいと母親に言い出したため母が出刃包丁を持って「いままで一生懸命育ててきたつもりだけど、そんなことを言うなら、この場でお前を殺して私も死ぬ」と泣き出し、母を安心させるために角界入りを約束したとある。


1992年11月に初土俵、「千代大海」と言う四股名は大分県の大と北海道の海という二つのふるさとに由来する。1997年9月場所で初入幕。


1999年1月場所で千秋楽(本割・決定戦は取直しで)の1日で3番取り、初優勝と大関に昇進。2010年に関脇へ陥落するまで、大関在位65場所(歴代1位タイ)の記録を持つ。大関在位時は14度(回数最多)も角番を経験した。幕内優勝は1999年、2002年、2003年に1回ずつ、合計3回。


2010年1月に引退し、20代目佐ノ山襲名2016年8月には、師匠にあたるもと横綱千代の富士、先代の九重親方が死去したのに伴い14代目九重を襲名し、九重部屋を継承した。

コロナ禍 では九重部屋がクラスターとなり自身も罹患して一時命の危機に陥った。


魁皇とは20勝34敗、琴光喜とは22勝20敗、栃東とは16勝18敗、雅山とは24勝22敗。


関連項目編集

大相撲 力士 大関 魁皇

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