概要
朝潮太郎や高見山大五郎と並ぶ、高砂部屋に伝わる由緒ある四股名である。
初代『小錦八十吉』は第17代横綱で、その後2代目、大関の3代目がいる。
ただし、十両以下も含めると6人いる。
タレントとしての小錦は主に3代目の事を指す。
第17代横綱・初代小錦
本名:岩井 八十吉(いわい やそきち)
1866年、上総国武射郡で料理屋を営む家に生まれる。
1881年に佐倉へ巡業に来ていた父親の土地相撲仲間だった高見山宗五郎(後に年寄・高砂を襲名)に頼んで入門させた。
1888年5月場所の新入幕から足かけ4年で39連勝を達成し、その間に優勝相当成績を7回記録する。
1896年5月場所後に吉田司家から横綱免許を授与された時には史上初となる20代での授与だったが、既に全盛期を過ぎており、一度も優勝相当成績を残すことが出来なかった。
1901年1月場所を最後に現役を引退して年寄・二十山を襲名。
二十山部屋を創立し、小錦八十吉(2代)・千葉ヶ嵜俊治などを育成した。1914年7月に高砂が死去したことで後継者に内定していたが、同年10月22日に死去、47歳没。
2代目小錦
本名:後藤 鶴松(ごとう つるまつ)
1887年10月15日に山形県西村山郡三泉村(現:山形県寒河江市)で生まれる。
1901年5月場所で初土俵を踏んだ。当初は四股名は出身地に因んで「山泉」と名乗ったが苦戦して出世まで時間が掛かった。
両國國技館(初代)のこけら落としとなった1909年6月場所で新入幕を果たしてから好成績を維持し1910年1月場所では第20代横綱・梅ヶ谷藤太郎(2代)を破って金星を獲得するなど、上位に通用するまでに力を付けた。
1912年1月場所では小結に昇進すると同時に「小錦 八十吉(2代)」を襲名するが、1916年に師匠・二十山の死去による二枚鑑札によって年寄・二十山(二十山 弥太夫)を襲名し、部屋を継承した。
その後も現役を続けるが同年1月場所で十両陥落、さらに1917年1月場所で幕下へ陥落したため、現役を引退して年寄専務となった。
後進の育成や勝負検査役や日本相撲協会理事を務めるなど、協会の役職を歴任した。
1943年3月3日に急性肺炎のため死去、55歳没。
大関・3代目小錦
アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島ナナクリ地区出身で現在は日本国籍(帰化)の元大相撲力士(高砂部屋所属)、株式会社KP所属のタレント、ハワイアン歌手。
米国籍時代の本名はサレバ・ファウリ・アティサノエ (Saleva'a Fuauli Atisano'e)。
現役時代は相撲の枠を超えて「著しく太っている人」の代名詞として日本中に広く認知されていた。
「小錦八十吉」は高砂部屋の由緒ある四股名であり芸名としての使用は許可されなかったが本名としては認められた。その為タレントとしては「KONISHIKI(コニシキ)」の芸名でタレント活動している。
一時期前妻の姓「塩田」を名乗ったこともあるし、子供向け番組では「コニちゃん」を使っていた。
10人兄弟姉妹の8番目で、兄にアントニオ猪木と格闘技戦で戦ったこともあるアノアロ・アティサノエがいる。
『のび太とロボット王国』にて主題歌とゲスト声優を担当したこともある。
身長・187cm、体重・275kg、の巨漢で、最高位は東大関。幕内最高優勝3回、十両優勝2回、序二段優勝1回、序ノ口優勝1回を果たしている。
サモア移民の家庭の末っ子に生まれ、両親は敬虔なクリスチャンで子供たちの教育には厳しかった。幼少期のサリー少年は文武両道の真面目な好青年だったが、ナナクリ地区の治安は悪く、私立高校に進学するとそれまで真面目だったサリーは周囲に影響され素行が悪化し、学校をサボって遊びに行ったり毎日のように喧嘩に明け暮れていたが、心配した両親がハワイ大学附属高校へ転校させると悪化した素行が元に戻り、アメフトに熱中し、ハワイ選抜メンバーに抜擢。また、勉強にも力を入れるようになり、「将来は弁護士に」という夢を抱くようになっていた。
高校時代から150kgの堂々たる体格であった。ある日ビーチにいたサレバ少年の身体、特にどっしりとした下半身を見た高見山の知人が「これはイケる!」と帰省中であった高見山に紹介した。
大相撲入門後は小学生用の漢字ドリルで漢字を覚え、高見山が苦手であった魚にも最初から適応するなど、日本の環境に馴染んだ。一方で現役時代は言葉の微妙なニュアンスの間違いで苦労することがあり、「相撲はケンカ」「自分が日本人だったら、横綱になっている」などの発言が物議を醸した。
その体重からすれば当然かもしれないが、ベンチプレスは250kgを記録する怪力として知られた。もっとも当時の高砂部屋では「相撲の稽古のみで体を作るべきだ」という風潮があったため、彼がウエイトトレーニングをすると親方衆が渋い顔をした。
また230kg超えの巨体にも関わらず運動神経にも優れ、特に膝を故障する前は横綱になれたとの声もあった。
彼の現役当時としては大関陥落後に平幕で長期間相撲を取ることは恥とされ、それでも平幕で相撲を取り続ける小錦に対して「元大関のプライドはないのか」という厳しい声が寄せられた。だがこの時の小錦の姿が後に元大関が平幕で相撲を取ることが当たり前になる後の時代を作ったのかもしれない。実際、批判の声を物ともせず、同じく平幕に落ちた元大関の霧島と共に土俵を盛り上げているうちに、あれほど小錦に対して否定的だったマスコミにも、いつの間にか応援ムードが広がっていた。
相撲協会退職後は度々テレビ番組の企画でダイエットに挑戦したが、減量とリバウンドの繰り返しであった。そして体調が悪くなると横ぶれがひどくなり、痛風や糖尿病、ひざの痛みなどで、1か月に1度は入院するようになり、ついに体重が300kgを超えると「このままでは死んでしまう」と思ったため、事務所の社員があらゆるダイエット法を調べた末に胃の縮小手術があることを知り、芸能活動を休止してまで妻とハワイに渡り手術をした。現在は体重は153kgで、膝の手術や減量後の皮膚の切除も行って、改善はしているとの事である。最終的な体重として130kgを目標にしていたが、医師が「筋線維が太いのでやっぱり150kgでいい」と指導し、そのままにしている模様。
余談
- 3代目小錦は陽気なイメージで知られるが2011年の飼い犬の糞を巡ってのトラブルの際の報道によると、私生活ではテレビなどでのイメージと程遠い無愛想さで知られ、墨田区界隈でも一般人への塩対応に苦言を呈する声が多々聞かれるという(参考)。もっとも、本人も自伝などで元々神経質な性格だったことを自認している。