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雷電爲右エ門

らいでんためえもん

江戸時代の力士。 剛力無双で知られる伝説の力士であり、「四禁」を課せられながらも254勝10敗、2分、14預、5無、41休と、勝率96.2%という驚異の大記録を打ち立てた。
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雷電爲右エ門とは、江戸時代力士である。

概説

生没1767~1825年
本名関 太郎吉
出身信濃国小県郡大石村(長野県)
所属松江藩 / 浦風部屋
最終成績西大関/254勝10敗2分14預5無41休 (35場所/優勝28回)


今なお角界で語られる伝説の最強力士
上記の生涯成績を見ても分かる通り、驚異的な強さを誇ったことから現在においても最強の称号を得ている。
記録によれば「身長197cm/体重169kg」と、当時150cm台が平均身長だった日本人男性としては異端というべき大男で、現代でいうと現役時代の把瑠都関とほぼ同じ体格であった。

若い頃から近在では怪力で知られ、出稼ぎに入った精米所でその剛力を振るって米俵を運搬し、評判となったという。その評判から精米所の主人の伝手で、隣村の好角家の庄屋に推薦されて力士の修行を始める。
「碓氷峠で馬を連れている最中に大名行列と出くわし、道の狭さから仕方なく馬を担いで避けた」(その大名からは力士になることを薦められて頭を下げなかったお咎めを無しにしてもらった)、「庭先で風呂桶に浸かる母親を、突然の雷雨から守るために風呂桶ごと担いで土間へ移した」など、その力自慢を示す逸話は多い。
「大男総身に知恵が回りかね」などともいわれるが、太郎吉は儒教の聖典といえる『四書五経』を理解し、そろばんに親しむなど頭脳面でも大変に優秀だった。後年に「諸国相撲控帳」(雷電日記)、「萬相撲控帳」を執筆しており、現在でも江戸の風俗を知るうえで貴重な資料なっている。

転機となったのは「天明の飢饉(1783/天明3年)」で、飢饉の影響から巡業の中止が相次ぎ、北陸での巡業が中止になった浦風部屋の一門が上原道場に逗留してくる。一門は慰問巡業や力仕事で逗留中の恩を返すとともに、太郎吉たち上原道場の面々にも稽古を付けてくれた。これで太郎吉も着々と下積みを重ねていく。
翌年には浦風からも力士の道を薦められ、本格的に力士となるべく上京する。
上京後すぐには土俵入りせず、さらなる鍛錬のために伊勢ノ海部屋へ入門し、谷風梶ノ助の内弟子となり稽古に明け暮れる。
そして数年の後に谷風の胸を借りて土俵入りを果たし、1788年(天明3年)に部屋の紹介で松江藩のお抱えとなって藩士に出世し、雲州所縁の「雷電」の四股名を頂戴した。

四禁

俗説ではあるが、雷電には「三禁」と呼ばれる禁じ手が課せられたという。
すなわち「鉄砲(突っ張り)」「張り手」「閂」の三種で、それらによって雷電が試合中に誤って対戦相手を重症もしく死に至らしめたとして、これを禁止されることになった。
ここに「鯖折り」を含めて「四禁」とする説もあり、いずれにしても雷電の規格外な強さを表す逸話として知られている。

最強の「大関」

生涯で10度の負けがあるが、内同じ相手に負けたのは1度だけであり、また八百長試合も嫌って常に真剣勝負で挑んだとされる。
その一度の相手こそ、幕内昇進をかけて闘った市野上浅右エ門と記録されている。

数々の伝説に彩られる雷電だが、生涯において横綱の栄誉を賜ることはなかった
これには諸説あり、現在でも決着を見ていない。
「殺生による『三禁』をかけられたため」、「自ら横綱を辞退した」、「雷電と拮抗する力士がおらず任命できなかった」、「上覧相撲(将軍家の観戦試合)の機会がなかった」、「主家である松江藩と、拮抗する細川藩との確執」……など、どれも確たる反証の余地のあるものばかりで、雷電がなぜ大関止まりだったかについてはわかっていない。
現在では「横綱制度ができる前で、得ること自体ができなかった」というのが有力説となっている。

そもそも横綱制度は、雷電の没後に正式に起用されたものであり、それまではあくまで単純に勲章や称号に等しいもので、独断と偏見で選ばれるのが常だった。
明治時代になり、こうした雷電を含めた横綱制度以前の力士たちの中で、横綱にふさわしい人物たちを「無類力士」と称して富岡八幡宮の横綱力士碑に刻み、現在では横綱と同格と扱われることもある。

引退後の足跡

現役終盤、腰を悪くして休業がかさみ、引退を決意。
引退後は藩の相撲頭取として力士の世話を任され、しばらくは江戸で活動する。
しかし火事で焼失した報土寺の再建の際に梵鐘を寄贈したところ、松江藩に反目していた幕臣の本田忠顕に目を付けられて言いがかりをつけられた末に、自分をひいきにしてくれた旦那衆から獄死者まで出てしまう。
この一軒で雷電は江戸払いとなり、江戸市中から放り出されてしまう。
その後も頭取として藩の相撲に貢献し続け、晩年にはのちの横綱である稲妻雷五郎関を発掘した。

1825年4月9日(文政8年2月21日)、59歳で波乱の生涯を閉じた。
死因や、晩年に足る足跡については史料が少なく、詳しいことは判然としていない。

人物

列記とした人物評自体は記録に乏しいが、勤勉で仕事熱心、目標のために深謀遠慮して余念なく準備に取り掛かるなど、実直な人物だったことが伺える。
八百長を嫌ったという逸話も、彼の実直さを現した話といえよう。

一方で大変な酒豪でもあったようで、享和2年(1802年)の長崎巡業で酒豪詩人李白の生まれ変わりとも称された学者・陳景山と呑み比べ、1斗(18ℓで)ギブアップした陳博士に対して雷電はその倍の2斗(36ℓ)もの酒を飲みほしたという。


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