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概要編集

1980年1月29日生まれ、広島県出身。


1998年デビュー、1999年東日本フライ級新人王、全日本フライ級新人王を獲得。


2001年日本フライ級王者獲得。

初防衛戦は内藤大助(前年の全日本新人王)と対戦。ドローで防衛もこの試合は「明確な内藤優位」の試合展開だったとも言われ、内藤のジムの同門にあたる大串尋人がナイフのような物を振り回して係員を威嚇しリングのエプロンに上がり、審判控え室に押しかける事態となった。以後3度の防衛をする。

2002年トラッシュ中沼に判定負け、王座陥落。

2003年トラッシュ中沼に判定勝ち、リベンジ達成で王座奪回。以後2度防衛し、2003年12月に返上。

2004年WBAフライ級王者ロレンソ・パ-ラに顎を砕かれたものの、序盤よりボディブローを多用し優位に試合を進めたが判定負け。「あれで勝てないなら、どうやればいいのか」と観戦に来ていた大橋秀行が嘆いたほどだった。

2005年WBAフライ級王者ロレンソ・パーラに判定負け。この試合も僅差での敗戦となった。

2006年パーラ負傷に伴う暫定王者決定戦でロベルト・バスケスに判定負け。この試合ではバスケス陣営も「負けたと思った」とこぼすほど接近したがダウンした事が仇となった。


2007年3月ロレンソ・パーラとの3度目の対戦で3RTKO勝ちしリベンジ達成、4度目の挑戦でついに世界王座を獲得した(ただし、前日軽量の時点でパーラは王座剝奪を言い渡されており、それほどモチベーションは無かったと思われる)。

2007年7月王座統一戦でロベルト・バスケスに判定勝ちでリベンジ達成。

2007年11月、2度目の防衛戦でデンカオセーン・シンワンチャーに引き分けで防衛成功。

2008年12月、5度目の防衛戦でデンカオセーン・シンワンチャーにKO負け、王座陥落。

2010年9月にはWBA世界フライ級タイトルマッチで亀田大毅と対戦したものの、終始亀田に翻弄されて判定負け。


2011年引退。


1度負けた相手には殆どリベンジに成功している。


2011年2月27日、同年4月24日に行われる東京都稲城市議会議員選挙に立候補することを表明、2位で初当選し、市議に。(現在3期目)

2015年5月21日、協栄ジム代表(会長代行)に就任。

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