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アフリカ中部に位置する国家。
首都はキンシャサ、公用語はフランス語

1960年6月30日にベルギーより独立。ただ、最初の国名は「コンゴ共和国」・・・・・・何と西隣に全く同名の国があったのだ。ゆえに「コンゴ・レオポルドヴィル」なる別名があったのだ。結果西隣のコンゴ共和国と区別するためにコンゴ民主共和国と改名したのだった。
その後1971年にザイール共和国と改名。1997年にコンゴ民主共和国に戻されている。

歴史

昔は現在のコンゴ共和国と同じコンゴ王国だったが、1490年にポルトガルによって発見されたのが不運の始まりであった。最初こそ関係は対等だったが、ヨーロッパ各国が新大陸での大規模農園を作る計画をたてると、労働者の需要が高まり、大西洋奴隷貿易が始まった。これが行われる以前にも奴隷貿易はあったものの、戦争の捕虜や犯罪者といった懲罰的な意味合いの奴隷だけだった。しかし、16世紀の需要の拡大により追い付くことができなくなり、次第に上述の奴隷貿易が本格的に始まった。これによって奴隷狩りが行われ、コンゴ王国は衰退していった。16世紀半ばから三角貿易が発達すると、高品質なヨーロッパの製造品が入るようになり、地元の産業や工芸は衰退してしまう。17世紀に奴隷貿易は最盛期を迎えた。一方、この頃ヨーロッパで啓蒙主義が生まれたのだが、人間は共通の理性を持ち、自由と平等を求める、というものだが、明らかに同じ人間である有色人種は含めないなど、大きな矛盾を孕んでいる。これによって人種差別が生まれることとなった。1807年にイギリスが奴隷貿易を禁止し、奴隷をアフリカに解放奴隷として返した。もちろんヨーロッパが悔い改めるはずもなく、18世紀に産業革命が起こると、アフリカは奴隷生産地から植民地にされていく。そんな中でもこの国は広大な密林によって侵入者を拒んでいたが、ベルギーの国王レオポルド2世によって目をつけられたのが悲劇の始まり。レオポルド2世の私財によって探検隊を組織し、奴隷独占条約をコンゴの首長と結び、植民地を広げていく。ベルギーはこれに一切関与せず、彼の私有地にされてしまう。最初は他国からの反対もあったものの、関税撤廃を表明すると認められた。これによってコンゴは「コンゴ自由国」となる。この自由とは、王が自由にできる国、という意味である。熱帯雨林に自生するゴムに注目し、ゴムの生産を急激に増やしていくら。これらは地元民の強制労働で支えられていた。イギリス著者によって圧政の暴露本が出版されると、批判は強まっていった。圧政の内容は、ゴムなどの採取を地元民に強制的に行わせ、規定量に達しないと腕を切り落とされるという苛烈なものだった。これによって批判が殺到し、レオポルド2世は味方がいなくなりベルギーに統治が移された。この時に植民地として成功し、圧政の再発防止にベルギー政府にコンゴの統治を集中し、植民者には権力はなくなった。その後アフリカの経済大国となった。独立するまでは。1958年に独立要望が生まれ、即時独立を訴えるようになった。その後の暴動もあり、ベルギーはあっさり承認。コンゴ国内では中央集権か連邦制にするかも決まっておらず、国内の学位取得者(いわば大卒)は16人だった。ルムンバが首相に就任したが、独立から1週間もしない内にコンゴ動乱が発生し、兵士たちによって略奪やヨーロッパ人の虐殺が始まった。これを受けてベルギー軍はカタンガ州から出撃し、ヨーロッパ人の救助を開始。5年間動乱は続き、外相のモブツによってクーデターを実行され、モブツが権力を握り中央集権体制を強化し国名をザイールと改める。アメリカと国連がルムンバを再任させようとしたためモブツはルムンバを粛清。その後30年以上に渡って政権を掌握する。外国からたくさんの援助を貰うのだが、あろうことか自分の私腹を肥やし、金欲や権力欲にまみれていったモブツはクーデターを起こされ、首都を制圧され追放された。その後コンゴ戦争に発展し、東部は虐殺・略奪・強姦の多発する無法地帯になった。この戦争によって540万人が犠牲となり、第二次世界大戦以降最多の犠牲者を出した。1977年に発見されたエボラ、2020年のCOVID-19(コロナ)にも襲われ、現在も安定していない。

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