概要
コンゴ民主共和国(コンゴみんしゅきょうわこく、フランス語:République Démocratique du Congo、読み:レピュブリク・デモクラティク・デュ・コンゴ)は、アフリカ中部に位置する共和国。旧名ザイール。内戦によりインフラが破壊され世界最貧国の1つに数えられている。
北は中央アフリカ、南スーダン、東はウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンガニーカ湖を挟みタンザニア、南東はザンビア、南西はアンゴラ、西は兄弟国でもあるコンゴ共和国と接する。
人口は2021年7月の推計では1億504万4646人であったが、エボラウィルスを筆頭に感染症の蔓延がひどく減少傾向。
歴史
ベルギー統治時代
1879年11月にベルギー国王レオポルド2世は、コンゴへの関心を高める為にコンゴ国際協会を設立した。1885年8月にコンゴ自由国が成立し、この地はベルギー議会の影響が及ばない国王の完全な私有地となった。なお、名称に自由とあるが、これは「王が自由にできる国」という意味である。熱帯雨林に自生するゴムに注目して急激に生産を増加していくが、これらは地元民の強制労働で支えられていた。
レオポルド2世はコンゴの近代化を推進したが、後に圧政を実施した。地元民は象牙・ゴムの採取を強制的に実行させられ、規定の量に達しなかった場合は手足を切断するという残虐な刑罰が情け容赦無く科された。これによって非難が殺到してこの地を手放し、1908年11月にベルギーの統治に服した。この時に植民地として成功し、圧政の再発防止の為にベルギー政府にコンゴの統治を集中した。これによって植民者に権力は無くなり、その後は独立するまでアフリカで最大の経済力を有する国であった。
ザイール
1960年にベルギーはコンゴの独立を承認。パトリス・ルムンバが初代首相に就任したが、国内の学位取得者(大学卒業者)は16人と知識層が圧倒的に不足。中央集権・連邦制のいずれにするかも決定しておらず、すぐにコンゴ動乱が発生、兵士たちによって略奪・ヨーロッパ人の虐殺が開始された。これを受けてベルギーは軍部隊をカタンガ州から出撃させ、ヨーロッパ人の救助を開始した。動乱は5年間続き、モブツ外相によってクーデターを実行され、モブツが権力を掌握して中央集権体制を強化した。
アメリカ合衆国と国際連合がルムンバを再任させようとした為、1961年1月にモブツはルムンバを粛清して1965年11月に政権を掌握。1971年10月に国名をザイールに改称。
内戦
ところが1997年5月にモブツはモロッコのラバトに亡命、同年9月にその地で死去した。1997年5月にローラン・カビラ大統領がコンゴ民主共和国に変更。1998年に再び内戦勃発。2001年にローランが暗殺、息子のジョゼフが後継となり2002年にプレトリアで和平合意がなされ、2003年に暫定政権が成立し内戦終結。
情勢
東部はもともと民族対立が激しく天然資源を巡り周辺国が介入するなど非常に危険。
中央のカサイ州は首長が治安部隊との衝突で死亡、首長を信奉する民兵組織が暴徒化。2019年に大統領に就任したチセケティの地盤であるため一部は投降したが依然として緊張状態。
その他の地域も貧困による金品の強奪が多発。そのため日本の外務省は渡航中止を勧告。
国際関係
アメリカ合衆国
1960年8月に外交関係を樹立し、ザイール共和国時代は強力な同盟関係にあった。これはモブツが強硬な反共産主義者であると考えられていた為で、モブツは在任中においてほとんどのアメリカの大統領と友好関係にあった。
日本
1960年6月に外交関係を樹立し、コンゴ川に唯一架かっているマタディ橋は1983年4月に日本の援助で建設された。1873年2月に岩倉使節団がベルギーを訪問した際、後に「コンゴ自由国」の支配者となるレオポルド2世に謁見した。
1967年6月に京都大学に霊長類に関する総合的研究を実施する目的で、霊長類研究所が設置された。山極寿一・松沢哲郎などの霊長類学の研究者によって、コンゴ民主共和国におけるゴリラ・チンパンジー・ボノボなどの霊長類などの調査・研究が実施されている。
関連タグ
コンゴ共和国・・・兄弟国
COD:ISO 3166-1及びIOCコードなのだが、リンク先の某大人気ゲームの通称と一緒であるため混合されやすい。