概要
歴史上において、兵士の数が敵より少ないことは珍しくない(というより事前に両勢力で打ち合わせでもしない限り兵数が同じになる方が珍しい)。
『孟子』では「寡は衆に敵せず(少ない者は多い者には勝てない)」とある。通常であれば勝つことは出来ない戦いに勝つ。そんな有り得ないことをやってのけた例を紹介したい。
寡戦の例
紀元前216年8月2日、スキピオのローマ帝国軍8万VSハンニバルのカルタゴ連合軍5万。ここでハンニバルはローマ軍を引き付け、最終的に包囲殲滅した。ローマ側は死者5万に対しカルタゴ死者5千。一度の戦いで5万の死者が出るのは第一次世界大戦まで無かった。今でも戦略の教科書として名高い。
西暦23年、王莽の新軍40万VS光武帝の後漢軍3千。さすがに数は誇張だと思われるが、とにかく圧倒的不利な状態で光武帝は勝ってしまう。
200年、袁紹軍10万VS曹操軍1万(正史の場合。三国志演義では70万VS7万)。序盤では袁紹側の猛将を討たれるものの、終始袁紹軍が圧倒していた。だが、袁紹軍の裏切り者の密告で兵糧の貯えている場所を焼き討ちされたことで曹操軍が勝利する。
208年、曹操軍20万VS孫権・劉備連合軍7万(正史の場合)。大軍を持って侵攻した曹操軍だったが、不慣れな水上戦や疫病に苦しみ、最後は火計を受けて敗北する。
1550年、武田晴信の武田軍7千VS村上義清の村上軍5百。砥石城に籠る村上軍だったが、少数とはいえ士気がかなり高く、さらに砥石城は崖に囲まれて攻める箇所が限られているという攻め難い城だったため武田軍は落とせずにいた。ついには村上軍本隊と挟撃されたことで武田軍は撤退し、さらに追撃を受けて横田高松ら多くが戦死するなど大きな損害を被った。
1560年6月12日、今川義元の三河軍2万5千VS織田信長の尾張軍3千。今でもなぜ勝てたか議論の的になるが、ひとつは雨が降っていたこと。そして奇襲である。桶狭間の戦いで今川義元は弱いなどと思われがちだが、「東海一の弓取り」として有力な武将だったことを抑えてほしい。その大物を倒したことで、織田信長の名声は大きく知られることになる。
1700年11月30日、スウェーデン王国のカール12世が、ロシア帝国相手に勝利。ロシア軍3万5千に対し、スウェーデン軍1万。戦力差はほぼ半分だったにもかかわらず、スウェーデンが勝てたのは「吹雪で大砲が撃てなかった」「兵の質が悪く統率が取れなかった」「内通者がいた」などの悪条件が積み重なったからだといわれる。
苦汁をなめたピョートル1世は、以降ロシア軍の近代化に乗り出す。
1939年、第二次世界大戦時、ソビエト連邦がフィンランドに侵攻した冬戦争で、ある戦闘でコッラー川に侵攻するソ連軍4千に対し、フィンランド軍はわずか32人。だが、満足に装備が整っていないにもかかわらず、パッパや白い死神らの活躍で撃退に成功している。
1944年6月13日、第二次世界大戦時、フランスのヴィレル・ボカージュでの戦闘で、イギリス軍の装甲車輌部隊200輌に対し、ドイツ軍の戦車部隊25輌が対峙。ドイツ軍のミハエル・ヴィットマンとティーガーの活躍で60輌以上撃破してイギリス軍を撤退させた。
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