ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

寡兵

かへい

敵より数が少ない兵士。寡兵で多数の敵と戦うことを「寡戦」という。
目次 [非表示]

概要

歴史上において、兵士の数が敵より少ないことは珍しくない(というより事前に両勢力で打ち合わせでもしない限り兵数が同じになる方が珍しい)。

孟子』では「寡は衆に敵せず(少ない者は多い者には勝てない)」とある。通常であれば勝つことは出来ない戦いに勝つ。そんな有り得ないことをやってのけた例を紹介したい。


寡戦の例

紀元前255年 ”スパルタからカルタゴへ”

紀元前216年8月2日、スキピオローマ帝国軍8万VSハンニバルカルタゴ連合軍5万。ここでハンニバルはローマ軍を引き付け、最終的に包囲殲滅した。ローマ側は死者5万に対しカルタゴ死者5千。一度の戦いで5万の死者が出るのは第一次世界大戦まで無かった。今でも戦略の教科書として名高い。


7月7日は昆陽の戦い

西暦23年、王莽40万VS光武帝後漢3千。さすがに数は誇張だと思われるが、とにかく圧倒的不利な状態で光武帝は勝ってしまう。


200年、袁紹10万VS曹操1万(正史の場合。三国志演義では70万VS7万)。序盤では袁紹側のを討たれるものの、終始袁紹軍が圧倒していた。だが、袁紹軍の裏切り者の密告で兵糧の貯えている場所を焼き討ちされたことで曹操軍が勝利する。


The battle of Chibi 赤壁之战

208年、曹操軍20万VS孫権劉備連合軍7万(正史の場合)。大軍を持って侵攻した曹操軍だったが、不慣れな水上戦や疫病に苦しみ、最後は火計を受けて敗北する。


1550年、武田晴信の武田軍7千VS村上義清の村上軍5百。砥石城に籠る村上軍だったが、少数とはいえ士気がかなり高く、さらに砥石城は崖に囲まれて攻める箇所が限られているという攻め難い城だったため武田軍は落とせず、ついには撤退して追撃を受けて横田高松が戦死する。


嵐を超える

1560年6月12日、今川義元三河2万5千VS織田信長尾張3千。今でもなぜ勝てたか議論の的になるが、ひとつは雨が降っていたこと。そして奇襲である。桶狭間の戦いで今川義元は弱いなどと思われがちだが、「東海一の弓取り」として有力な武将だったことを抑えてほしい。その大物を倒したことで、織田信長の名声は大きく知られることになる。


1700年11月30日、スウェーデン王国のカール12世が、ロシア帝国相手に勝利。ロシア軍3万5千に対し、スウェーデン軍1万。戦力差はほぼ半分だったにもかかわらず、スウェーデンが勝てたのは「吹雪で大砲が撃てなかった」「兵の質が悪く統率が取れなかった」「内通者がいた」などの悪条件が積み重なったからだといわれる。

苦汁をなめたピョートル1世は、以降ロシア軍の近代化に乗り出す。


しも・へいへ・改

1939年、第二次世界大戦時、ソビエト連邦フィンランドに侵攻した冬戦争で、ある戦闘でコッラー川に侵攻するソ連軍4千に対し、フィンランド軍はわずか32人。だが、満足に装備が整っていないにもかかわらず、パッパ白い死神らの活躍で撃退に成功している。


関連動画

いつかやる

非株式会社いつかやる氏の戦略紹介動画・再生リスト


関連タグ

戦略戦術戦法

戦史



参考

関連記事

親記事

戦略 せんりゃく

兄弟記事

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました