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昆陽の戦い

こんようのたたかい

昆陽の戦いとは、西暦23年に起きた新朝と更始帝政権との間で起きた戦争の事。
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概要

帝位を簒奪した王莽朝に反乱を起こした劉秀(後の光武帝)が武名を上げた戦いの一つ。

地皇四年(更始元年/西暦23年)に勃発した。


百万の軍勢を率いる王莽軍に対し、劉秀は一万人程の軍勢で抵抗し、これを打ち破った。


この武功は劉秀に大きな武威や威厳を付与する事となり、漢の復興に大きく役立つ事となった。


王莽軍の軍勢は百万(諸説あり四十万前後が有力)

指揮官は王邑王尋荘尤陳茂


劉秀の軍勢は一万前後(諸説あり)

指揮官は劉秀王常王鳳李軼


当時の状況

帝位を簒奪し、数多くの失政を行う新王朝に対し、兄の劉縯(りゅうえん)に引っ張られる形で反乱を起こした劉秀らは、山賊や野盗がベースであった緑林軍や、同盟を組んだ豪族達の軍を率いていた。そして劉秀兄弟と同じ南陽豪族であり、緑林軍に身を寄せていた劉玄が、劉縯を差し置いて皇帝を名乗り更始帝となり、劉縯・劉秀兄弟はその配下として各地で戦いを繰り広げていた。


この時、劉縯は大司徒(丞相)の地位であり、また劉秀は太常偏将軍に拝されていた。劉縯は荊州の宛(えん)を攻めるために出陣し攻め立てた。宛は大きな都市であり落せば長安までの足掛かりとなるため、十万の軍勢で包囲した。

しかし、大きな都市であるだけに守りは頑強であり、中々落城しなかった。


この状況をただ見ている王莽(おうもう)では無く、宛救援のための援軍を出す事を考えていた。

当時暴れていた赤眉軍はイナゴの様な流浪の集団であり、放っておいても自滅すると王莽は考えていた。しかし、劉縯らは前漢皇族の血筋を持ち、また明確に自身へ向かってくる敵であったため、脅威を覚えているのは明白であった。王莽は劉縯の絵に毎日矢を射かける事を布令し、また劉縯の殺害・捕縛に対し多大な懸賞金をかけていた。


王莽からの援軍を防ぐため、潁川郡に劉秀が布陣し、周辺の豪族を懐柔した上で同盟を結び、兵力を集めて足止めを行う事となったのである。八千~九千程の兵力を得た劉秀は要所である陽関にて王莽の軍を待ち受ける事となった。


百万の軍勢

しかし、王莽は想像以上の大軍を出すと布令した。その数何と「百万」である。

総大将には王莽の従弟である大司空(当時の新朝のナンバー2)の王邑(おうゆう)がつき、大司徒には同じく従弟の王尋(おうじん)がついていた。その軍の内容も尋常では無く、数多くの獣と猛獣使いが共に(象、虎、狼、豹、犀などがいたとされる)編成された。戦の助けとなるため、様々な流派の兵法六十三家を数百人加え、望むままの兵法書、武器、兵器を与えた。武勇の士を集めた武衛軍も作らせた上、剛力無双と称えられた巨人「巨無覇」(きょむは)も付き従った。巨無覇の身長は一丈(2mほど)で、腰回りは十囲(120cmほど)であり、三頭の馬に勝る怪力を誇っていた。これらの軍に宛での戦いに敗れた荘尤(そうゆう)、陳茂(ちんも)らも合流した。この異様な大軍勢は劉秀がいる陽関の向こう、劉縯が攻めている宛へ向けてやってくるのである。目的は宛への救援であるが、大軍を使用し、勢いのまま更始帝の勢力を滅ぼそうと考えているのは明らかであった。


大軍勢がやってくる威圧感と百万と言う数字は劉秀が率いる兵たちに恐怖を与えるのに十分であり、脱走兵が続出。そもそも数千の兵しか率いていない劉秀が勝てる筈は無いが、要所である陽関を守る事は可能ではある。しかし、兵が逃げてはそれも出来ない。結局、多数の兵と共に陽関を捨て、守りが堅固な昆陽城に逃げ込む事となってしまう。


劉秀、決死の脱出

昆陽城に籠った劉秀であるが、取れる手は多くない。

寡兵しかいない状況で打って出るのは自殺行為であったが、攪乱を行い軍勢をかき乱す作戦を取ろうとするも、諸将は拒否。そもそも、昆陽は要所では無く、常識で考えれば放置か、仮に敵が昆陽を攻めるとしても数万程度の軍で昆陽城に逃げ込んだ軍を釘付けにするだけで良い。(だからこそ、ゲリラ戦で嫌がらせの攻撃程度であれば可能と考えるのは普通である。)


しかし、なんと何故か要所でも無い昆陽に王莽軍百万は攻め込んで来たのである。

劉秀は目を疑ったが、地の果てまで続く様な押し寄せる人の波は疑いようが無い。金目の物を搔き集めて、逃げ支度をしていた城内の将兵たちも呆然とするばかりであった。財宝を抱え自己の保身に走る将兵たちに劉秀は語った。

「ここで逃げた所でいずれは反逆罪で首が飛ぶ。しかし、ここで武功を上げれば今の何倍もの財が手に入る。」

事実、既に彼らは更始帝の政権に加担しているので、ここで負ければいずれ待つのは処刑と言う末路である。将兵は渋々ながらも従ったが、現状は変わっていない。


最早、打って出れば死が確定する状況に追い込まれた。

かといって、籠城も期待できない。

何故なら籠城とは外からの援軍あっての戦法であり、宛を落とした後に劉縯らが救援に駆け付けてくれる可能性に賭ける他無い。しかし、敵は百万であり、十万の軍勢で戦えば全滅の危険性があるため、救援も実質期待出来ない。考えようによっては籠城作戦を行えば本来の目的である宛への進軍を遅らせると言う時間稼ぎは可能であった。劉秀は悩んだが、ある一筋の望みを持って少数で城外へ脱出する事を決意した。


実はこの時、王莽軍の中でも混乱が起きていた。

通常、取る方策であれば前述の通り昆陽は無視して宛へ行く。昆陽が心配でも釘付けにする少数の兵を送っておけば良い。王莽軍の目的は宛の救援であり、昆陽は些事なのである。そもそも、宛へ直行すれば現在戦闘中の宛と王莽軍で挟み撃ちに出来る。そして、宛が落ちれば昆陽にいる将兵はそこにいる意味が無くなり、降伏するのは自明の理であった。この至極真っ当で常識的な戦術を新の将軍である荘尤は提言した。


しかし、その提言を王邑は拒否。

「今、百万の兵を率いて近くに敵が籠る城がある。これを放置すれば世の中から何と言われるか。それに、先に歌い後に舞う様に気持ち良く戦いたい。」と、完全に舐めプ発言で拒否した。


結果として昆陽城を素早く攻め落とす方策となったのであった。


しかし、大軍だけに陣を整えるのに時間がかかった。日が落ちても陣は整わず、兵達は休息をとり出した。そんな陣が整い切らない中、少数の馬群が王莽軍の間近を駆け抜けていったが、兵たちは城からの脱走兵と見て、気にも留めなかった。


その少数の手勢こそが劉秀率いる兵であった。

劉秀は少数の手勢で城を脱出。城は王常と王鳳に守ってもらい、自身は宗佻李軼鄧晨ら十三騎のみで援軍を集めて連れてくると言う算段である。百万の軍は確かに多い物の、多すぎる兵法家による定まらない方針に加え、城攻めが始まれば幾重もの陣で過密状態になる。更には来ないと思っている援軍による意表をつこうと考えたのである。無論、脱出を見逃されなければそこで終わりであったが、大軍ゆえの気のゆるみか一騎たりとも欠けずに包囲を抜ける事が出来た。ここからは時間との勝負である。素早く兵を集めて救援に行かねばならない。


劉秀は周辺の豪族の元へ行き、説得を試みた。百万の兵に対し攻撃を仕掛けると言う策に豪族たちは渋ったが、負ければ反乱に手を貸した事が罪となり死罪となるが、勝てば武功となる事を劉秀が説き何とか数千の兵を集める事に成功した。


王莽軍の猛攻

そして、劉秀が援軍を集めている最中に昆陽での戦いが始まった。

王莽軍は雲車(梯子や櫓を組み合わせて作成する見張り台。雲を突く程高い為こう呼ばれる。)で城内を見下ろし、更には多数の矢を射かけて来た。矢の雨が降り注ぎ、水を汲みに行くのにも戸板を背負って出なければならない程だったと言われる。また、撞車(しょうしゃ)と言う攻城兵器で城門や城壁を突き崩していき、地下道を掘り城への侵入を試みる多重攻撃を受ける事となった。更には、多数の太鼓で音を鳴らし威圧し、戦意を低下させていく。さらにはそれらの兵器を何とか破壊しても、次から次へと予備が出てくる。容赦の無い物量作戦であった。


ある程度は耐えていた物の、余りの猛攻に王常、王鳳は降伏を決意。降伏の使者を王莽軍へと派遣した。荘尤は、これですぐに宛への救援へ行けると思い使者を王邑の元へ案内した。

……が、降伏の申し出を王邑は全力で拒否。


あともう少しで城が落ちて武功になる事を望んだのかもしれないが、この降伏が受け入れられなかった事で、昆陽城は完全に覚悟を決め、死ぬまで抵抗すると言う死兵と化してしまったのである。


決死の覚悟を緩めるため、荘尤は策として「兵法では城を囲むときはあえて逃げ道を作り、また帰ろうとする敵を追わないと申します。わざと兵を逃げる道を見せて、決死の覚悟を削ぎましょう。」ともっともな策を提言した。しかし、これも全力で拒否


「私は以前、虎牙将軍であった時、圉城で翟義(てきぎ)を逃がした事を責められたのだ。今度こそ逃がさず生け捕りにする。」と譲らなかった。

(この一件は王莽が権力の簒奪を起こった頃に起きた物で、翟義は多大な権力を握った王莽に対して、反乱を起こした首謀者。)


つまり、城を全力で落として大将を生け捕りにして最大の武功を得る!と言う事である。

(じゃあ、降伏を受け入れろよと思ったあなたの思考は正常です。)


そんな中で、ある出来事が起きた。流れ星が王莽軍の陣中に落ち、昼には山が崩れる様な雲が陣に当たって砕け、地面の手前で霧散した。ある兵士は「崩れた山の様な雲は、営頭の星。営頭の落ちるところ、軍が壊滅し流血が三千里に及ぶと言う」この不吉な方言を放置する王邑では無かったが、結局出所は不明のままであった。


間に合った援軍

そんな中、数千の援軍を引き連れて劉秀が戻ってくる。仮に降伏を受け入れていたら、援軍は間に合わなかったであろう。昆陽は決死の抵抗を行っている最中であった。


劉秀は歩兵と騎兵一千を率いて王莽軍と数里の地点に陣を張り、自ら先陣を切った。これを見た王邑、王尋は敵を侮り、同数程の兵で対応させ、城攻めを続行させた。更に、全軍に軽挙妄動を禁じ、持ち場を離れない様に厳命した。


しかし、決死の覚悟で突撃する劉秀軍と、慢心した王莽軍では勝負にならなかった。劉秀自ら突撃し、自身の手で敵を数十人討ち取った。普段は兄と比べて大人しく弱そうな劉秀が奮戦しているのを見て、将兵たちも奮起した。劉秀は次々に突撃を敢行し、配下の将兵と共に首級を上げていく。陣を乱すのを嫌ったのか、少数の手勢での対応を続ける王莽軍に対し連戦連勝。劉秀は場所を移しながら転戦したため、ついに昆陽城の近くまで到達する事が出来た。


ここで劉秀は一計を案じる。

昆陽城の近くで王莽軍が劉秀軍の兵士と戦闘をした。劉秀軍の兵士はすぐに逃げたが、その時木簡の様な物を落とした。王莽軍の兵士によりその木簡はすぐに王邑に届けられた。木簡には宛が既に落ちた事と、劉縯が援軍に来ることが書かれていた。


なお、この時は両軍とも知らなかった事であるが、同年の五月末には宛は落城していた。劉秀はあくまでも嘘として伝達した物であるが、真実だったのである。


この報告は王邑にとってショックであった。本来の目的を達成できなかったからだ。しかし、それでもまだ望みはあった。昆陽を落とし、宛へ行き、敵を殲滅すれば良いのだから。


また、昆陽城内にもその情報は伝わった。劉縯からの援軍がくると聞いて、兵達は奮い立った。


だが、劉秀はこのままでは持たない事を冷静に察していた。兵の士気高揚も一時的な物。百万の敵が相手なのだ、今勝ててもいつかは崩れてしまう。大胆な手で大きな成果をあげて、相手を瓦解させねばならない。敵大将の首を取る為の作戦を練り始めていた。


奇跡の大勝利

西暦23年7月7日、劉秀は意気軒高な兵士から三千人の精鋭を選び決死隊を結成した。さらに、敵に気付かれぬように迂回し、劉秀軍本陣の反対側から急襲を仕掛けた。王邑らが持ち場の死守を厳命した為、王莽軍の大半の軍は動けなかった。


結局、王邑・王尋は直属の一万程の手勢で対応せざるを得ず、劉秀率いる三千の決死隊と戦った。劉秀自ら先陣を切る戦いぶりに王莽軍は狼狽え、ついに王尋の首級を上げるに至った。その騒ぎに城内の王常、王鳳も気付き城から打って出たため、王莽軍は挟撃を食らう羽目になってしまった。大軍故に情報伝達が遅くまた大将が討たれた事で情報が錯綜。数がわからないが大軍が攻めて来たと思い込み、王莽軍は大混乱に陥った。更に、異常気象で突如の嵐に見舞われた。この嵐で王莽軍の指揮系統は完全に麻痺し、立て直す事は不可能となった。更には連れて来た猛獣も怯えて暴れ出し四散、パニックになった大軍の兵士たちは我先に逃げ出す中で氾濫した河へ飛び込み数万の兵士が溺死、また相手を押しのけて逃げたため、大量の人間が圧死した。王邑・荘尤・陳茂らは並みいる死体を踏みしだいて、何とか長安へ帰還する事が出来たが、残ったのは数千の兵のみであった。


※異常気象に関して真偽は不明である。天が皇帝を認めたと言う箔をつけるために気象を味方につけた描写を入れ大仰に書いた物と思われるが、悪天候の中であえて奇襲をかけた可能性もあるのである程度は本当に起きた事かもしれない。


王莽軍が運んでいた物資(武器、兵器、兵糧)や財物が大量に残され、数か月かかっても回収しきれ無かった。また持ち運べないと判断した物は処分したとも伝わる。


結果

この戦いは、当時の中国でのパワーバランスを一変させてしまった。

同じ年に、更始軍の攻撃を受けて王莽は殺害され、新は建国15年でその幕を閉じた。


そして、多大な武功を上げた劉秀も更始政権内で危険視されはじめ、政権抗争の結果として兄の劉縯は誅殺される事となり、劉秀も更始政権から距離を置き、河北平定に行った先で皇帝に即位する事となる。また、この戦いの武功は世に広く知られる様になり、大軍を壊滅させた畏怖もあり敵を恐怖させたと言う。この戦いで劉秀に付き従った者は鄧晨王覇任光傅俊馬武臧宮劉隆趙憙など多数おり、皇帝となった劉秀の元で長きに渡り活躍する者が多くいた。


王莽軍の敗因

通常負ける筈の無い戦いで王莽軍は負けてしまったが、全ての対応が拙すぎた。


過剰な大軍の運用を行った事

数が多ければ有利なのは間違いが無いが、大軍は動きが鈍くなり、臨機応変な対応が難しくなる。伝達一つ伝えるのにも時間がかかる他、大軍であると言う気の緩みを度々突かれていた。

また、一人の人間が不自由なく動かせる人数は5~6万人が限界であるとも言われている。つまり兵数に対し、指揮官が足りなかったとする見方もある。

そもそも王莽自身が大兵力運用にこだわる悪癖があり、少数の匈奴に対して30万の大軍勢を編成したこともある。このコストは重税となり人々に圧し掛かって行き劉縯ら豪族たちの反乱を引き起こしている。


昆陽にこだわった事

そもそも、さっさと宛に行けば目的とする更始政権が終了していた可能性は高い。宛の将兵と共に更始政権の軍を挟撃出来る上に、重要な諸将を打ち破れば王莽の王朝はもう少し長続きしたかもしれない。

宛では包囲されてる中で食料も無くなり、仲間を食べていた有様であった。救援が届いていれば悲惨な状況を防げたので、王邑と王尋がいかに愚将であったかを示している。(なお大軍が消滅し、作戦も失敗したものの王邑を後継者として考えていた王莽は特に処罰をしていない。)余談だが、宛を守っていた王莽軍の将である岑彭(しんほう)を劉縯が助命した事により、更始帝政権へ引き入れる事に成功している。岑彭は後に劉秀の元で活躍し、雲台二十八将の六位に序列されることとなる。


劉秀の突撃に対し寡兵で応戦した事

援軍を引き連れた劉秀に対し、同数程度の軍で対応を続けてしまった。これは愚策中の愚策であり、素直に数倍の軍勢を出してすり潰してしまうのが良いのだ。(なんなら、10万位出せば確実に壊滅状態に出来る。)

しかし、これをせずに少数の兵のみで戦力の逐次投入を行うと言う愚を犯してしまった。


更に言えば、まともな戦法の提言を全て拒絶した事や、多種多様な兵法家を読んで方策が定まらない事(船頭多くして船山に上る)、降伏を受け入れなかった事と敗因を探ろうと思えば次から次へと出てくる。せめてまともな将軍ならば負けなかったろうが、王邑・王尋は讖緯で選ばれた将軍なので、将才そのものは無かったと思われる。


※讖緯…ざっくりと言うと、儒教の重要な書物である経典である緯書と言う物に書かれた予言の事。(たまに献上された物とか石碑とかに書かれてる事も)この讖緯を利用して王莽は王位を簒奪しており、都合の良い緯書の偽造をしまくっていた。予言に合わせるために、門番と餅売りで同名の者を高級官僚にした逸話もある程。昨今で言うなら「聖書のページを特殊な読み方をすると未来の予言が出てくる!」的なアレ。


百万の大軍の真偽

王莽軍の「百万」の軍勢はやはりしばしば議論の元となっている。中国史では度々皇帝を賛美し、敵を貶めるために数字が盛られる事が多い。この百万の大軍も、書かれている資料によって数字が変わっている。

以下、幾つかの説を紹介する。


実際に百万人いたが実際に戦ったのは四十二万人ほど説

大軍を動かすには戦える兵士だけがいれば良いと言う物では無い。実際には兵糧や資材の運搬、管理を行う人々が必要である。説明の中で扱われた雲車なども実際に部品を運ぶ人や組み立てる人などがいるのである。そのため、百万の軍団の大半は輜重兵であったと言う説である。これは後漢書に記されている説明である。


実際は四十万程度説

百万と言うのはあくまで表現、美文であると言う説。奏上する際に一々数を四十二万と言ったのではキリも悪いので、大軍と言う意味で「百万」と言ってしまうのである。なので、王莽は「百万の軍団=すごい大軍団」と言って四十万程の大軍を集めた、それを破ったから百万の大軍団を破った、と劉秀に箔が付いたのである。とは言え、実際に四十万でも大軍に変わりは無く、劉秀の武功がかすむ物では無い。主に、漢書では四十二万、資治通鑑では四十三万、後漢紀では四十万に加え、荘尤・陳茂の兵数が足されている。


実際は三万説

いくら何でもそこまで誇張はしないだろうと思われるが、王充の『論衡』では三万と書かれている。

一方劉秀軍は五千である。ただし、一説には『論衡』に書かれた「百」の字が削れて「三」に見えてしまったものが広まったと言うのが有力。


以上が概ねの説ではあるが、おおよそ四十万位の相手と戦ったのは間違いがなさそうである。また、それだけの資金が王莽の元に残されていたのかという疑問はあるが、王莽が討たれた時には王莽の元には六十万斤以上の黄金が残っており、動員出来る人員さえいれば大軍を動員出来た可能性が高い。


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