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概要編集

アールネ・エドヴァルド・ユーティライネンとはフィンランドの人外の兄の方である。二つ名は「モロッコの恐怖」。

フィンランド軍第12師団第34連隊第6中隊の隊長。フィンランドの士官学校で同級生と酒場で飲んでいた時、泥酔して寝てしまい、布団にくるまれて放置されていたのを校長に目撃され、退学を食らったが、たまたま新聞で見たフランス外人部隊に惹かれ、北アフリカに渡る。

そこでモロッコ植民地戦争に参加しモロッコの恐怖と言われる。(敵兵を根こそぎフルトン回収でもしたのだろうか)

※この綽名の実態は気に入らない兵士が居たので「暑苦しい」と殴りかかった味方の誤射にブチ切れて誤射した部隊兵を射殺しようとしたなどなどの数々の狂気エピソードが元になっている…。

ちなみにこの瞬間沸騰器のような気性のせいで後年同軍中尉の脚を口論の末、撃ち抜いた為、職業軍人になれなかった。


その後フィンランド陸軍に戻っているが、彼曰く「人生をエンジョイしすぎちまった!」せいで除隊勧告を受け職を転々とする。

が、冬戦争で予備役中尉として戻ってくる。


活躍の数々編集

戦時には第12師団第34連隊第6中隊、通称「カワウ中隊」の中隊長に任命された。


開戦時、第6中隊を含む第34連隊は、ラドガ湖北方、フィンランド領土がソ連領内に突き出た通称「ヒュルシュラの鉤」近辺に展開しており、国境を越えて侵攻してきたソ連軍を迎え撃った。


兵士数、装備ともにソ連軍はフィンランド軍を圧倒、しかもフィンランド軍は慢性的な弾薬不足に苦しめられたが、冬戦争期間を通じ、フィンランド軍はソ連軍の攻勢を食い止め続けた。この戦いは、付近を流れる小川、コッラー川にちなみ「コッラーの戦い」と名付けられた。その激戦区にあって、少ない兵力でソ連軍を撃退し続けた第6中隊および中隊長のユーティライネンの活躍は、戦時中より新聞等で報じられ、国民的英雄となった。


そんな彼だが、かなりの珍事件を冬戦争時に起こしている。


  • 指千切れて痛いけど、後送されたくないから黙ってよう

ある時、彼は敵の砲撃で指がちぎれ飛んでしまった。

普通ならこんなことになったら衛生兵のお世話になり、そのまま後送されて野戦病院で治療を受けるのだが……。

前線に拘る彼はそのことを一切報告せず、最前線に留まり続けた。


  • 俺の部隊の装備充足率は完璧じゃないといけない

彼は自身の部隊の装備充足度を満たさないといけないとして、かなり強引に上層部や兵站部から装備を調達してきた。

そんな彼に当然、同僚らから反発が入るも、「戦争中はどんなことがあろうと装備や兵站の確保は最重要である!」と反論し、黙らせた。

また補給担当が「調達が困難です」と報告した際には、「貴君らは拳銃を持っているだろう?それを上手く使い給え。」と言い放った。

因みにこれらを彼は冬戦争が起こる前にやっている…。戦争中とは何時の事なのだろうか…?


  • 雪玉でもぶつけて応戦しろ

志願兵二人が「私たちは良心に基づき武器を持つ事は出来ません」と彼に提言してきた。そんな彼らに対し、彼は「武器を持たないのは個人の自由だ。持つのが嫌ならそれでも良い。しかし、歩哨に立つのは部隊に配属された人間の義務だからやってもらう。ソ連兵が来たら雪玉でも投げて応戦すれば良い。ソ連兵を陣地に通さなければそれで十分だ。」と答えた。この返答に応召兵達はすっかりやり込められて、しぶしぶ歩哨に向かったという。


  • スキーピクニックがてらソ連軍の装備を略奪事件

コッラーの戦い時、彼の取った防衛手段の一つにスキー移動による無音奇襲作戦というのがある。

これはフィンランドなどの北欧各国の人たちが幼いころから身近にあるスキーを使い、雪中迂回行動で相手の意図しない方角から奇襲を行うことだが…かれはこれをピクニック感覚でおこなっていた。

例えば、1939年12月14日の攻撃では、「まるでピクニックにでも出掛けるようにはしゃぎながら」出撃し、5輌の戦車を撃破し、2門の対戦車砲を鹵獲している。

これらの奇襲作戦の成果で得た鹵獲兵器は『使い勝手が似てて弾丸共用の新型兵装』として有効活用していた模様。


  • 「相手は4個師団+戦車1個旅団だが、守れるかね?」「大丈夫です。閣下が退却命じなきゃ守れます」

コッラーの戦いの前後にユーティライネンに対して、フィンランド軍のハッグルンド将軍が「中尉、コッラーは持ちこたえるかね?」と尋ねたところ、「大丈夫であります、閣下!コッラーは持ちこたえます、閣下が退却を命じられない限り!」と返している。

その後、ソ連軍は1個師団が守るコッラー一帯へ4個師団+戦車1個師団という途轍もない大戦力を投入してきた。

…のだが、ユーティライネンの発言通り、フィンランド軍はその防衛線を最後まで死守し続けた。


  • 揺り椅子で最前線でくつろぐ

部隊長としての彼は非常に胆力があったようで、銃弾どころか砲弾が飛び交う戦闘の真っ只中にもかかわらず、個人で持ち込んだ揺り椅子に腰かけてのんびりしていた。


  • ソ連軍による猛烈な砲撃の嵐の中、推理小説を読んでた

ある時、彼の籠る防衛線にソ連軍が猛烈な砲撃を仕掛けてきた。

当然、その状況は上層部にも届き、慌てた上層部から援軍は必要か?と打診があった。

それに対して彼の回答は「非常にドキドキハラハラする展開ですね」と答え、「援軍はいるのかね?必要なら送ろう!」という問い合わせに対しては「あ、大丈夫です。一人で読めますから。」と返した。

上層部や周辺部隊が大慌てするようなやばすぎる砲撃の嵐の真っただ中という状態だったのにもかかわらず、彼は呑気に推理小説を読んでいた。


こんな破天荒な人物であったが、戦場で常に精神を削られる思いだった部下達から「親父さん(パッパ)」と親しみを込めて呼ばれる程、慕われていた。

彼自身、広報部隊が取材に訪れた時は自分の手柄よりも部下たちの手柄を自分の事のように嬉しそうに語り、猛烈な砲撃で心が挫けそうな兵士が居れば傍に行って励まし、常に部下たちと共に前線に立ち続けた。

敵戦車相手に火炎瓶や手りゅう弾片手に肉弾戦を仕掛けたりもしている。


その慕われ様はある従軍神父に「軍隊に誰か慕われる指揮官を一人連れて来いと言われたら、私はユーティライネン中尉を推挙しますね」と言わしめたほどだった。


冬戦争終結後に結婚、継続戦争までの間、コンティオラハティ駐屯地において教官を務め、継続戦争では第7師団第9歩兵連隊に属し戦った。1944年9月からのラップランド戦争では大隊指揮官として戦ったが、横紙破りな言動から昇進は叶わず、戦後は予備役に移された。戦時の英雄ではあったが、平和な市民生活には馴染めず、結婚生活は破綻、酒におぼれ、戦傷の痛みに悩まされる戦後であったという。

1976年10月26日他界。


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