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マンネルヘイム

まんねるへいむ

フィンランド共和国第6代大統領。軍人でもあり、フィンランド内戦、冬戦争、継続戦争やラップランド戦争にて活躍した。母国・フィンランドでは英雄として高い人気を誇り、「最も偉大なフィンランド人」に選ばれた。
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概要編集

フィンランド大公国時代編集

1867年、帝政ロシアの傀儡政権・フィンランド大公国にて産まれた。

フルネームは「カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム」。


当時のフィンランドは、絶対主義を掲げるロシアに対する反感が高く、フィンランド独立の機運が高まっていた。特にニコライ2世は実力でフィンランドの民族主義を弾圧したために、フィンランドにおける反露感情は激化した。


しかし、フィンランド人でもロシア軍に入ることは可能であった。そのため、マンネルヘイムは困窮した家計状態を解決するべくロシア帝国陸軍に入った。そして日露戦争を戦った。

しかし、この日露戦争は大日本帝国が勝利し、ロシアは完敗した。そして戦争中にフィンランド総督・ボブリコフがフィンランド民族主義者に暗殺されたことなどもあって、ロシアの国力は落ちていった。


第一次世界大戦が勃発すると、マンネルヘイムもロシア軍として参加。しかし、のちに休暇を取りフィンランドへと帰還。


そんな中、ロシアは革命により衰退。これはフィンランド民族主義者にとって独立の好機だった。


フィンランド内戦期編集

ロシア国内の混乱の隙をつき、フィンランド王国は独立を宣言。これによりロシアの圧政から脱することに成功した。


しかし、ロシア革命を起こしたボルシェヴィキ政権改めソ連はフィンランドにて煽動を行い、それによって共産主義を掲げるフィンランド赤衛軍(以降、「赤衛軍」と表記)が誕生した。

これに対抗するべく、帝政ドイツスウェーデン王国の支援を受けたフィンランド白衛軍(以降、「白衛軍」と表記)が結成された。

こうして、白衛軍と赤衛軍の間でフィンランド内戦が勃発。マンネルヘイムは白衛軍の司令官として、赤衛軍を相手に戦った。赤衛軍は数だけ多く練度が低かったのに対し、白衛軍はドイツ将校による訓練を受けて練度の高い軍隊であった。これにより、白衛軍はタンペレの戦いで勝利。さらにマンネルヘイムが赤衛軍を降伏させ、フィンランド内戦は白衛軍の完勝で終結した。


その後、ドイツが第一次世界大戦で劣勢になっている様子を見たマンネルヘイムはフィンランド政府に対して、ドイツへの依存度を低くするように提案した。しかしこの提案は却下され、マンネルヘイムはスウェーデンへと亡命した。


フィンランド共和国誕生編集

その後、第一次世界大戦でドイツが敗戦したことによりフィンランド王・カールレ1世(帝政ドイツ最後の皇帝・ヴィルヘルム2世の義兄弟)は退位。これによりフィンランドは共和制へと移行し、フィンランド共和国が誕生した。


そしてマンネルヘイムはフィンランド政府に帰国するよう頼まれ、彼はその要請に従った。そして彼はイギリスなどの外国から食糧支援を得ることに成功した(フィンランドは食料の輸入をドイツに依存していたため、ドイツ敗北に伴い別の国からの支援を得る必要があった)。


その後、フィンランドでは再び共産主義者が集会を開いていた。しかし、フィンランド内戦中に赤軍が数々の蛮行を行なっていたためにフィンランドには反共主義が浸透しており、反共運動・ラプア運動が起きた。これによりフィンランド共産党は非合法化された。しかし、ラプア運動が過激化し、過激派はフィンランド初代大統領カールロ・ユホ・ストールベリとその妻を誘拐。結果、右派(ラプア運動家)も左派(共産主義者)も取り締まりの対象となった。


その後、マンネルヘイムはソ連の脅威に対抗するべくフィンランドの軍需産業を支援。フィンランド軍の近代化に成功した。


冬戦争・継続戦争編集

(詳細はこのリンクこのリンクを参照。)


1939年、ソ連はノモンハン事件の終結や独ソ不可侵条約により、日本やドイツとの対立が(この時点では)緩和された。


これをきっかけにソ連は領土拡大を目論み、ポーランド東部を占領し、バルト三国へも勢力拡大を目論んだ。

そして、ソ連はフィンランドに領土の一部を割譲するよう求めるが、フィンランドはこれを拒否。フィンランドとソ連の間の交渉は決裂した。


そして、ソ連軍偽旗作戦を実行後、フィンランドとの不可侵条約を破棄して侵攻。フィンランド軍25万に対し、ソ連軍は100万だった。しかしマンネルヘイム率いるフィンランド軍はモッティ戦術を使用。シモ・ヘイヘの活躍やマンネルヘイム線の存在、さらには大粛清によるソ連軍の弱体化などもあり、フィンランド軍はソ連軍に大打撃を与えることに成功した。

【Poland Ball】冬戦争🇫🇮×穿天氷壁(赫○…)


その後、フィンランドはソ連と講和を締結。しかし、この講話内容はフィンランドに対して不利なものであり、カレリア地峡などをソ連に割譲せざるを得なくなった。


その後、フィンランドは失地回復のため、そして安全保障を確保するためにスウェーデンとの軍事同盟を模索した。しかしドイツとソ連の両国に反対されて実現しなかった。


しかしフィンランドは諦めず、ソ連に対抗するべくドイツ軍のフィンランド駐屯を許可した。


そして1941年、独ソ不可侵条約を破棄したドイツがソ連へと侵攻し、独ソ戦が勃発した。フィンランドは当初中立を表明した。しかし、フィンランドに駐屯していたドイツ空軍がソ連を攻撃。ソ連は、それに対する報復としてフィンランド領内へ爆撃を実行。これに反発したフィンランドは、失地回復も掲げてソ連に対して宣戦布告した。

当初、マンネルヘイム率いるフィンランド軍は優勢だった。しかし、ドイツ軍がモスクワの戦いに敗北し、さらにスターリングラードの戦いでも敗北したことをきっかけに、ソ連軍は反転攻勢を実行。さらに、ドイツは連合国軍によるノルマンディー上陸作戦に対して敗北。これによりドイツの劣勢は明らかとなった。


こうして、フィンランドはソ連と講和せざるを得ず、大統領となったマンネルヘイムはモスクワ休戦協定を締結。これによりフィンランドは、東欧の国々とは違いソ連による傀儡化を免れた。


晩年編集

その後、休戦協定に従ったフィンランドはドイツ軍をフィンランドから追放(ラップランド戦争)これによりフィンランドは完全に終戦を迎えることに成功した。


そして戦後、高齢に伴い健康状態が悪化していたマンネルヘイムは大統領を辞任。


1951年、マンネルヘイムは亡くなった。彼の国葬はフィンランドの首都・ヘルシンキで行われ、多くの参列者を呼んだ。


評価編集

彼の母国・フィンランドではソ連による侵攻を2度も防いだ英雄として高い人気を誇り、2004年にフィンランドで放送された最も偉大なフィンランド人という番組において、投票数一位を獲得した。


余談編集

  • マンネルヘイムは数回アジアへ出張・旅行した。日露戦争後にはチベットにてダライ・ラマ13世に謁見しており、日本にて長崎県舞鶴市にも訪れている。また、戦間期におけるアジア旅行にて、マンネルヘイムは日本刀受け取っている(どのような経緯で受け取ったかははっきりとしていない)。このとき、大日本帝国陸軍の仮想敵はソ連であったため、同じくソ連と対立するフィンランドの要人と連携することによってソ連を牽制するという狙いがあった可能性が高い。

関連タグ編集

フィンランド

フィンランド共和国 フィンランド国防軍

冬戦争 継続戦争

マンネルヘイム線

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