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ノモンハン事件

のもんはんじけん

1939年、大日本帝国・満州国軍がソ連・モンゴル軍と交戦した紛争。停戦後の処理はソ連優位に進んだものの、ソ連軍の犠牲は日本軍のそれを上回っていた。
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背景編集

1930年代、大日本帝国(以降、日本と略称)とソビエト連邦(以降、ソ連と略称)の間では張鼓峰事件などの国境紛争が多発していた。

そして1939年、ソ連の傀儡国・モンゴル人民共和国の軍隊が日本の傀儡国・満州国へと領土侵犯を行った。


概要編集

第一紛争編集

5月6日、満州国軍は、満蒙国境を侵犯してきたモンゴル軍を撃退した。しかしその後、ソ連・モンゴル(以降、ソ蒙と表記)の陸空軍が満州へと侵攻。満州国軍は日本の関東軍と共にソ蒙軍を迎え撃った。

関東軍はソ連側はこちらの倍はある補給路である事に補給戦では優位と判断していたが、ソ連軍は必要な数の過半数程度しか集められなかったトラックを補給路の六カ所に中継基地を建設するなどの輸送体制で不眠不休で使用して日本軍以上の補給を前線に届けていた。

陸戦では、日本と満州国(以降、日満と表記)が不利な状態で終了したのに対し、空戦では日満が圧勝した(ソ連軍は54機の戦闘機を失ったが、日本側の戦闘機の損害はゼロだった)。


第二次紛争編集

同年7月、ソ連軍が越境爆撃を行ったことにより、紛争が再発。さらにソ蒙陸軍も侵攻を開始したため、日満軍はそれを迎え撃った。当紛争は激戦となり、日ソ両軍がかなりの犠牲を負った。

そんな中、ソ連がドイツとの間に不可侵条約を締結。これにより、ソ連に対するドイツの脅威が消え去ったため、ソ連軍が現在以上の規模の軍を向けてくる可能性が生じた。そのため、日本は停戦を決定した。


紛争の終結編集

日本はソ連と停戦をし、国境線はソ連側の主張通りになった。


紛争の状態編集

ソ連軍側は二流部隊ばかりであったが、日本側の方も第23師団は三個連隊制の特設師団で訓練も充分でなかった部隊で状況は同じであり、それでも戦争全体での損害は日本の1万7000名ほどの戦死傷者に対し、ソ連軍には2万4000名以上の戦死傷者を出す損害を与えるなど善戦した。

しかし、日本軍は補給が充分でなく次第にその攻勢が立ち枯れてゆくのに対して、第57特設兵団長ゲオルギー・ジューコフは後方・兵站を重視しての輸送体制を確立した上での充分な補給物資・増援により、8月20日からのソ連軍攻勢開始時には日本軍の4倍の兵力を得ており、その満を持しての中央を歩兵部隊により日本側を牽制し、両翼から機械化部隊で包囲殲滅を図るソ連軍攻勢に対して、日本軍も頑強に抵抗するも後方の砲兵部隊すら戦車隊に蹂躙される展開となり、ソ連側に多大な損害を与えながらも第23師団は8割に近い損害を受け壊滅状態となって撤退している。


戦車部隊も戦車第3連隊、第4連隊が投入された。

日本軍戦車の砲弾は全体的に貫徹力が低い為に遠距離での砲弾は貫通出来なかったが500m内では敵戦車装甲を貫通可能で、練度の高さもあり善戦する事が出来たが、第3戦車連隊長吉松清武大佐が戦死し、投入した92両のうち30両を全損した事から部隊の壊滅を怖れた関東軍により実質数日戦闘しただけで7月10日には撤退している。対してソ連側は戦闘期間中に戦車・装甲車を投入し続け、400両ほどを損失したが、その性能は対戦車砲、大砲と共に開戦前の日本側の予想以上のものであったという。


空戦では当初は僻地の部隊らしく未熟パイロットばかりのソ連軍を優秀な日本陸軍パイロットは圧倒したが、やがてスペイン内戦を経験したベテランパイロットなども加わり、I-16戦闘機などで九七式戦闘機の得意な格闘戦でなく一撃離脱の戦法を多用し始め、多数の増援を得るようになると日本側の損害も増え始め、篠原弘道少尉のようなエースも戦死を遂げ、251機の損害を与えながらも157機の損害を出し、九七式戦闘機が枯渇して旧式の九五式戦闘機を投入する事態に後半は追い込まれていた。またツポレフSB-2爆撃機、ツポレフTB爆撃機の侵入高度の高さに高射砲は無力で、九七式戦闘機でも迎撃は容易でなかった。


その後編集

事件終結後、日本陸軍ではその敗北責任をとらされ関東軍では司令官植田謙吉大将をはじめとして6名の将官が解任・辞任して予備役となり、参謀本部では参謀次長中島鉄蔵中将ら2名の将官が解任され、予備役となった。

また第23師団では師団長小松原道太郎中将が辞任して予備役となり、6名の将校が解任、左遷され、1名は免官となり、フイ高地での奮戦でソ連軍からも評価された井置捜索隊長井置栄一中佐は無断撤退により、辞任し予備役となった元第6軍司令官荻洲立兵中将と小松原元師団長の意向で自決を強要され自決した。また第8国境守備隊から派遣された長谷部支隊長長谷部理叡大佐も井置中佐と同様の理由で自決を強要され自決している。

ソ連軍の実力を思い知らされた日本軍首脳ではソ連軍を仮装敵国とする北進論はおさまり、事件の報告書は伝統的精神威力を益々拡充させると述べたうえで、火力戦能力の正当な認識をもって補給・教育・運用・技術を飛躍的進展で促進すべきとされ、戦車・対戦車砲の能力向上なども図られたが、工業水準の低さ、対中国戦での莫大な戦費などもあり、火力向上は短期間では無理なので当面は敢闘精神で対応とする問題の後回しで遅々として進まず戦訓が充分に反映されたとはいえなかった。

しかし、航空方面では多数の熟練パイロットを失った事により、機体防弾装備強化、無線の向上、単機戦闘から編隊戦闘への移行、叩き上げの下士官の将校登用の道を開き、少年飛行兵の募集に力を入れるなどの改善が行われ、重戦闘機の一撃離脱戦法への理解も深まり、日本海軍に比べ近代的な認識と戦力の拡充が行われる事となった。

その後、ソ連軍は日本の脅威が減ったことによって、ドイツと共にポーランドを分割した。さらに、フィンランドへと侵攻した。だが、ノモンハン事件同様フィンランド軍が6万8000名以上の戦死傷者を出したのに対し、ソ連軍は36万名以上の戦死傷者という膨大な損害を出したが、それでもフィンランドを捻じ伏せ勝利している。

前述した通り、日本と反ソで一致していたドイツがソ連との間に不可侵条約を締結したことにより、日本は単独でソ連と敵対することになった。日本はその状況を打開するべく、日ソ中立条約を締結した(ただし、国内においては反共政策を継続した)。

だが、その2ヶ月後にドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連へと侵攻。日本は関特演でソ連を牽制したものの、ノモンハン事件によるトラウマもあって、中立条約を堅持して対ソ侵攻は行わなかった。

しかし、太平洋戦争で日本が劣勢になると、兵士・市民のおよそ2700万名の犠牲を出しながらも、ドイツ側に兵士・市民およそ832万名の犠牲をださせて独ソ戦を制したソ連は中立条約を破棄して対日参戦を実行。

日本は1945年8月15日にポツダム宣言を受託して降伏したが、ソ連軍は日本が降伏した後も侵攻を続けた。この際に、ソ連が国際法に違反して不法占拠した北方領土は、現在も日本国ロシア連邦の間の紛争地域となっている。


関連項目編集

日ソ国境紛争

張鼓峰事件

  • 篠原弘道…当紛争において、大日本帝国陸軍の戦闘機の操縦者として参戦。「東洋リヒトホーフェン」と呼ばれ、ソ連の戦闘機を多数撃墜したが、戦死した。
  • 空の勇士…当紛争で勇戦した大日本帝国陸軍飛行戦隊の活躍を記念する軍歌
  • 冬戦争…前述した通り、ソ連がフィンランドへと侵攻して勃発。戦後の講和条約はソ連優位に進んだものの、ソ連軍の損害はフィンランド軍のそれ以上だった。

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