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概要編集

ソビエト連邦(以後、ソ連と省略)に対する否定的な感情。


主な要因として、ソ連による侵略戦争や人権弾圧、領土問題や人体事件などがある。


各国における反ソ編集

アメリカ合衆国イギリスフランス編集

第二次世界大戦ではソ連と共闘したが、戦後は世界の覇権を巡り対立(冷戦)し、アメリカはNATOの盟主となった。


フィンランド編集

ソ連による侵攻(冬戦争)において、大打撃を与えたものの領土を喪失。のちに継続戦争において再びソ連に大打撃を与えるも、最終的に領土を割譲して講和。その後はソ連と敵対しないようにはしながらも、決して従属はしなかった。


日本編集

大日本帝国時代、日ソ間で国境紛争が多発。ノモンハン事件は激戦となり、ソ連軍に大打撃を与えるも敗北。のちに講和し、第二次世界大戦の前期では日ソ中立条約を締結した。しかし大戦末期、ソ連は中立条約を破棄して突如日本へと侵攻。日本が降伏を宣言しても、ソ連軍はGHQが日本へと到着するまで侵攻し続けた。ソ連に投降した(民間人や女性も含む)日本人捕虜は、シベリア抑留などの強制労働をさせられ、約6万人が亡くなった。のちにGHQによる統治を経て主権回復民主化を果たし日本国を建国したのちに、前述したソ連による侵攻によって(国際法に違反して)奪われた北方領土を巡って対立。日米安保条約を締結することによってソ連・中国北朝鮮による脅威に対抗した。ちなみに、この北方領土問題はソ連が崩壊して以降も(それを事実上継承した)ロシア連邦との間で続いている。


ポーランド編集

一度目のソ連による侵攻においては勝利し、リガ平和条約の締結に成功。しかし、ソ連はドイツ第三帝国不可侵条約を締結し、独ソ両国による侵攻により滅亡。その後、約2万5千人ものポーランド人捕虜がカティンの森事件によって虐殺された。しかし、不可侵条約の破綻により勃発した独ソ戦において、皮肉なことにソ連によってドイツの占領から脱することができた(ちなみにこの過程で、ポーランド国内軍がドイツに対して蜂起したのだが、彼らはソ連に利用されて見捨てられ、戦後は関係者がソ連によって処刑された)。しかし、ソ連に奪われた領土はほとんど戻ってくることはなく、ソ連の傀儡国と化した。

しかし1989年に達成された民主化により、事実上の独立を達成。のちに(ソ連軍を引き継いだ)ロシア連邦軍の撤退により完全なる独立を達成した。


ドイツ編集

第三帝国時代に起こした第二次世界大戦において、前期は不可侵条約を締結していた。しかし、後にそれを破棄してソ連へと侵攻。当初はソ連領を次々と蹂躙していったが、ソ連軍による反転攻勢をくらい、ベルリンの戦いによって敗北。後に連合軍による統治を受けたのち、冷戦の影響を受けて西部には自由主義国家ドイツ連邦共和国が建国されたのに対し、東部にはソ連の傀儡国・東ドイツ(以後、東独と省略)が作られた。ソ連の独裁主義共産主義の影響を受けた東独政府のもと東独国民は困窮し、西部のドイツ連邦共和国へと逃れる人々が多かった。なお、この時期に東独政府はベルリンの壁を作った。

しかし、東独国民の民主化運動により壁は崩壊。自由を望む国民たちの意思により、西ドイツ主導のもとドイツは統一され、東独政府は消滅した。


ウクライナ編集

ソ宇戦争により、全国土をソ連に奪われた。ソ連政府によって、ホロドモールと言われる計画的飢餓を起こされ、大量のウクライナ人が餓死した。しかしながら湾岸や穀倉地帯、工業地帯があることによる優位性自体は損なわれず育まれ、ニキータ・フルシチョフが青年期に過ごしていたりロシア人移入も多かった(その多くがドンバスなどの東部地域に集中した)。ソ連書記長・ヨシフ・スターリンによる大粛清の一環として、ヴィーンヌィツャ大虐殺の被害に遭った。ソ連の崩壊により独立性を回復するが、ウクライナ戦争勃発とともにナショナリズム運動の一環としてこれらの歴史を想起し反ソ連的感情が高揚する原因ともなった。


大韓民国編集

ソ連によって朝鮮半島を分断され、ソ連は北部に傀儡国・北朝鮮を作り、北朝鮮は朝鮮戦争において大韓民国を侵略した(さらにソ連はその侵略を支持した)。米韓同盟を組んでソ連・中国・北朝鮮による脅威へと対抗した。ソ連崩壊後も、(ソ連の事実上の継承国である)ロシア連邦と敵対。その後、国防を強化するべく日本との間にGSOMIAを締結した。


中華民国台湾編集

第二次世界大戦ではソ連と共闘した。しかし、その後勃発した冷戦においてソ連は満州を(反乱分子の)中国共産党(以後、中共と省略)に渡したことにより、華ソ関係は悪化し、ソ連は中共を本格的に支援。中華民国政府は国共内戦中に中共軍によって、中国本土から台湾へと追いやられ、今に至る。


中華人民共和国(本土)編集

上記の通り中国共産党とソ連は共闘こそすれど、革命以前の清朝ロシア帝国から続く大陸覇権を巡る対立軸はそのまま継承され、お互い寝首を掻こうと諜報戦を展開する。国共内戦終結後も係争地となる満州モンゴル新疆ウイグル周辺ではきな臭い対立が絶えず、毛沢東クレムリンに赴いても足止めを食らい盗聴までされたという。フルシチョフ政権になってソ連は反動によるスターリン批判を展開し、西側への融和姿勢を見せ冷戦の雪解けムードを演出したが、毛沢東はこれを修正主義であると猛反発し基本的姿勢が出来上がる。対立姿勢は80年代の鄧小平時代になるまで続いた。


チェコスロヴァキア編集

冷戦の際には政府はソ連の傀儡だったが、ソ連式の支配に反発した国民はプラハの春を起こした。


ハンガリー編集

第二次世界大戦では、枢軸国として独ソ戦に参戦。

しかし戦後にはソ連によって占領され、赤下されて傀儡化もされた。しかし国民はこれに反発し、ハンガリー革命軍ハンガリー動乱を起こして親ソ傀儡政権の打倒を図る。しかしソ連軍による武力弾圧によりこれは失敗した。


ルーマニア編集

ルーマニア王国時代に勃発した第二次世界大戦中、ソ連による圧力でベッサラビアと北ブコヴィナを割譲する羽目になった。のちに枢軸国として独ソ戦に参戦して両地域の奪還に成功するも、ソ連軍の反撃により再び両地域をソ連により占領されただけでなく、ルーマニアそのものもソ連により赤化・傀儡化され、ルーマニア人民共和国となった。その間の独裁体制、特にチャウシェスク政権は恐怖政治を引き起こしたが、ルーマニア革命よりチャウシェスク政権は崩壊。民主化を達成し、ソ連による傀儡化を脱することに成功した。


バルト三国エストニアラトビアリトアニア編集

独ソ不可侵条約の締結後に、ソ連軍による侵攻を受けた。その後、森の兄弟という組織がソ連に抵抗した。そして、ソ連崩壊後に独立した。


関連タグ編集

反共主義 反露

反中 反北

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