概要
所属国 | ソビエト連邦 |
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出生日 | 1878年12月18日 |
死亡日 | 1953年3月5日(75歳) |
出生地 | ロシア帝国 グルジア ゴリ |
死亡地 | ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ |
所属政党 | ソビエト連邦共産党 |
出身校 | トビリシ神学校(退学) |
宗教 | 無神論 |
配偶者 | イェカチェリーナ・スワニーゼ(1人目)、ナジェージダ・アリルーエワ(2人目) |
子女 | 4人(この内の1人は前の妻との間に誕生した。) |
その他 | ソビエト連邦軍の軍人として勤務(1918年7月 - 1953年3月) |
ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(ロシア語:Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин、ジョージア語:იოსებ ბესარიონის ძე სტალინი、ラテン文字表記の例:Iosif Vissarionovich Stalin、本名:ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ、1878年12月18日 - 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家。第2代ソビエト連邦最高指導者。労働者階級と社会主義擁護者として尊敬されていた一方で、全体主義的な政権であると広く言われており、治世ではホロドモール・大粛清・ヴィーンヌィツャ大虐殺・カティンの森事件・シベリア抑留などの大規模な弾圧・民族浄化・大規模な国外追放・数十万人の処刑・飢餓を指揮したとして非難されている。
経歴
初期
1878年12月18日にロシア帝国のグルジアのゴリで、貧しいグルジア人の家庭に誕生した。父は靴職人で腕は良かったが、事業に失敗した事から酒に逃避して暴力を振るうようになり、幼少時代は母と共に別居していた。勉学が出来たのでトビリシ神学校に進学するが、共産主義運動に共感して退学させられる。1901年11月にマルクス主義のロシア社会民主労働党に入党し、党の機関紙であるプラウダを編集して資金を集めた。ウラジーミル・レーニンのボリシェヴィキ派に入り、活動資金を確保する為に強盗・誘拐・みかじめ料を取るような犯罪を犯して何度もシベリアに流刑され、1917年11月に民族問題人民委員(省の長官・大臣に相当)に選抜された後は党書記長に就任した。
最高指導者
1924年1月にレーニンが死去した後は権力闘争に勝利して最高指導者となり、1928年10月に5か年計画を導入し、ソ連は農業集団化と急速な工業化を経験して中央集権的な経済を創出した。1936年8月に労働者階級の敵を根絶する目的で大粛清を実施し、1938年11月に党が収束を打ち出して終了するまでの間に68万1692人が殺害され、合わせて137万2382人が政治的な理由で逮捕された。スターリンは共産主義インターナショナルを通じ、外国でマルクス・レーニン主義を推進した。
第2次世界大戦
1939年8月にナチス・ドイツと不可侵条約を締結し、同年9月にソ連はポーランドに侵攻した。同年11月にソビエト連邦軍はフィンランドに侵攻するが、大粛清があった影響で軍が大幅に弱体化していた為、フィンランド国防軍よりも多くの死傷者を出した。1940年6月にルーマニアのベッサラビアと北ブコビナ・同年8月にバルト3国を併合したが、北ブゴビナを併合したのは独ソ不可侵条約に違反しており、ドイツがソ連に対して不信感を抱く要因の1つとなった。
終戦後
1941年6月にドイツが不可侵条約を破棄してソ連に侵攻した事で、3大国の1国として第2次世界大戦の連合国に属し、連合国で最も多い犠牲を出しながらもドイツに多大な損害を与えて勝利を果たした。1941年4月に日本と中立条約を締結したが、1945年8月に破棄して日本に侵攻し、同年9月までに北方領土を占拠した。更に中央・東ヨーロッパ全域と東アジアの一部にソ連の傀儡政権を樹立した後、アメリカとソ連は世界の超大国として君臨し、1947年3月から東西冷戦に突入した。
死去
1949年8月に核実験を実施し、ソ連は世界で2番目の核保有国となり、同年9月に核実験の成功と核兵器の保有を認めた。1953年3月にモスクワにて74歳で死去し、同年9月にニキータ・フルシチョフが後継となった。1991年12月にソ連が崩壊してからもスターリンは世界の超大国としてのソ連の地位を確固たるものとした最高指導者として、ロシアとグルジアで人気を保持してきた。
性格
グルジア人である事の誇り
グルジア人である事を誇りとしており、ロシア語はグルジア訛りで話し、生活様式はグルジア風であった。自分が少数民族のグルジア人でありながら、グルジア人が現地のカフカースでは支配的な多数派である事を意識していた。ウクライナ・ベラルーシなどをソ連の構成国とするレーニンの案に対し、全てロシア人では無い少数民族の地域を自治区としてロシアに組み込む案を提出した。
第1民族
一方で独ソ戦の時にロシア人を第1民族と位置付け、ロシア民族の国粋主義をソ連防衛に活用した。戦後にはイスラエルの親西側傾向を受け、医師団事件などユダヤ人陰謀論にも思える側面を見せた時期もあるが、大粛清の時代を生き抜いた旧知の副官であるカガノーヴィチはユダヤ人である。人間不信で疑い深く臆病・権力欲と顕示欲が強い性格で、このような性格は独裁者となると一層増幅され、家族・肉親ですら信用せず、被害妄想と言えるほど周囲の他人を疑って接していた。
母・長女に対する接し方
母と長女だけは別であったが、長女の方は恋愛絡みで酷い干渉を受けており、特に最初の恋人がスパイ容疑でシベリア送りとなった件を根に持っていたらしい。父が死去して10年経ってからアメリカに亡命し、出版した回顧録で父を「孤独感と絶望感から来る弾圧マニア」と叩いていた。
逸話
ホーチミンに対する仕打ち
1950年1月にベトナムの共産主義革命を指揮したホー・チ・ミンが極秘にソ連を訪問した事があり、スターリンはホー・チ・ミンをスパイと疑っていたが、ホー・チ・ミンはスターリンに初めて会った事に感激してサインを求めた。スターリンは渋々ホー・チ・ミンが差し出した雑誌にサインしたが、直ぐこれを後悔して秘密警察に命じて雑誌を秘密裏に回収させてしまった。
その後もスターリンはサインが無い事に気付いて慌てるホー・チ・ミンの様子を聞いて喜んだという。後に「あいつはまだ探しているのか?見付ける事は出来んぞ。」と嘲笑の種としたとも言われる。後にフルシチョフは自伝記でスターリンのこの行為を指して、「純粋で共産主義的な人物に酷い接し方をした。」と批判している。
毛沢東
「マーガリン共産主義」(「バターに対する偽物」という意味)と揶揄していた事があった。
死因
上記の通り直接的な死因は脳卒中だが、間接的には他人を信用しなかった事による発見・治療の遅れが原因ともされる。なお一説にはスターリンから「指示があるまで絶対起こすな。」と厳命された警備責任者がいつまでも指示が来ない事に不審を感じるも、スターリンの怒りを買う事を恐れて何もせず、夜遅くになって部屋に入った家政婦が倒れているスターリンを発見したとされる。
治療が遅れた事に関しては長女の回顧録で「倒れた際に側近達がいたにもかかわらず、やる事なす事に我慢の限界であったのか放置した。」とされており、未だに諸説が入り乱れている。一方である側近が「流石に毒には勝てなかった。」と零していたとの記録が存在しており、そのせいで毒殺説が現在まで存在し続けている。
生活
趣味は温室でのレモン栽培・映画(特にアメリカ製)・演劇・音楽鑑賞・読書などである。レモンを来客に食べさせては嬉々として自慢していたが、映画鑑賞に関しては周りにまともなロシア語を翻訳出来る人が居なかった為、映画産業の責任者が必死に暗記する・適当なアドリブで凌いでいたとの事である。しかし本人は寧ろ馬鹿げた通訳騒ぎを楽しんでおり、決して専門通訳を入れようとしなかったらしい。大衆的な娯楽映画を好んでおり、アメリカの映画を多く取り寄せていたという。
音楽
音楽は約2700枚のレコードを持ち、クラッシック音楽を好んだ。演劇は古典的な演劇・バレエ・オペラを好んでいたが、前衛芸術的なものは嫌ったという。
読書
大の読書家で蔵書は約2万冊に及び、それらはクレムリンの住居・別荘に分類されて置かれていた。そこにはマルクス・エンゲルス・レーニンの著書などは勿論のこと、哲学書・文学書・歴史書・軍事書もあった。果ては自身が粛清したレオン・トロッキーなどの政敵の著書、ソ連を侵略したアドルフ・ヒトラーの「我が闘争」などもあった様で、これらを寸暇も惜しんで読み、色鉛筆でアンダーラインを引く・余白に書き込むのを楽しんだ。訪問した客には机上に置かれている新刊の包みを指差して、「私の読書ノルマは毎日500ページ」と語ったという。
その他
またビリヤード・歌も上手く、時計収集の趣味もあったという。
移動・酒
飛行機が苦手で列車での移動がほとんどであった。特異かつ捻じ曲がったユーモアセンスがあり、側近を結構キツイ方法でからかうのが好きで、個人的なお遊び(部下を酔い潰すのが好き)と実益(忠誠度チェック)を兼ねて毎度仕事終わりに宴会を開催しては部下に酒を沢山飲ませていた。当然側近は例外なく腎臓か肝臓のどちらかがあるいは双方がアルコールでボロボロであったという。
家族
1906年7月にエカテリーナ・スヴァニゼと結婚、翌1907年3月に長男・ヤーコフが誕生したが、同年11月にエカテリーナが腸チフスで死去した。1919年3月(正式に結婚が登録された日)にナジェージダ・アリルイエバと再婚し、1921年3月に次男・ワシーリー、1926年2月に長女・スヴェトラーナが誕生したが、1932年11月にナジェージダは死去した(自殺とされる)。
長男・ヤーコフはナチスに捕虜で捕まり、大戦後期に敗色が濃厚となったドイツ側は、スターリングラード攻防戦で捕虜となったフリードリヒ・パウルス元帥とヤーコフの交換をソ連側に提案した。しかし、スターリンは「中尉と元帥を交換する馬鹿が何処にいるのかね」と一蹴した。また逆にヒトラーの親族で捕虜となっていたレオ・ルドルフ・ラウバルとの交換も提案されたが、これも拒否されている。親から見放されたヤーコフは酷く落胆し、直後にナチス・ドイツのザクセンハウゼン強制収容所で電気自ら柵に突撃して自爆したとも、列から走り出して電気柵直前で振り返り、兵士に向かって「撃て!」と叫んで自ら望んで銃殺されたとも伝わる。
次男・ワシーリーが軍用航空学校に入学した際には学校に彼に如何なる恩恵も特権も与えず、通常の軍隊宿舎で生活させるように命じたという。また、ワシーリーがスターリンの威光を笠に着た時は「お前はスターリンではない。私もスターリンではない。スターリンとはソビエト権力そのものだ。新聞に載るスターリン、肖像画として描かれるスターリン、それがスターリンだ。お前や私などはスターリンではない」と叱責したという。
それだけでなくヤーコフが死んだと報告を受けた際は、彼の写真を見詰めてふさぎ込んで食事もせずに嗚咽し、ワシーリーが学校の成績が悪く、校長先生からスターリンに「国家主席でありながら子の教育が出来ないのですか」と批判された際は、「息子が不出来なのは私が至らないからです。どうか許して下さい」と謝罪するなど、息子達にも少なからず情があった様である。
余談・その他
語録
- 「愛とか友情などというものは直ぐに壊れるが恐怖は長続きする」
- 「感謝とは犬に悩まされて気分を悪くするようなもの」
- 「諸君はドイツからのニュースを聞いたか? 何が起こったか、ヒトラーがどうやってレームを排除したか。ヒトラーという男は凄い奴だ! 奴は政敵をどう扱えばいいかを見せてくれた」(ドイツでの「長いナイフの夜」事件で、ヒトラーが政敵のエルンスト・レーム率いる突撃隊を粛清したのを聞いての発言。この事件をベースに大粛清を決意したともいわれる)。
- 「赤軍には捕虜は存在しない、存在するのは『反逆者』のみである」(冬戦争でのロシア人捕虜の話を聞いて)
- 「母さん、僕はツァーリ(皇帝)みたいな仕事をしているんだよ」(1935年10月に死期が近付いた母の見舞いに行き、彼女に「どんな人になったの?」と聞かれた際の発言である。ただ息子の悪名は耳に入っていたのか、母は「司祭となって貰いたかったのにねぇ」と零し、それを知ったほとんどの人民が大喜びしたとか。ただし、直前に「どうして(子供の頃)あんなに僕を殴ったの?」「だからそんなに立派になったのよ」という会話もされている) 。
- 「ろくでなし(ヒトラー)がくたばりやがった」(ヒトラーが自殺したという報告を受けて)
- 「日本は最後にはまた這い上がって来る」(大戦終結直後)
- 「チベット攻撃?結構な事だ」(毛沢東党主席からチベット侵攻の許可を求められての返事)
- 「北朝鮮は永久に戦い続ければ良い。何故なら兵士の人命以外に北朝鮮が失うものは何もないからだ」(朝鮮戦争について周恩来に語った一言)
- 「私はもうお終いだ。誰も信用出来ない。自分さえも」(1951年にフルシチョフに語った呟き)
スターリンの発言に良く帰されるが別人の発言
(Смерть решает все проблемы. Нет человека, и нет проблемы)
1987年4月に出版された『アルバート街の子供達』(著作:アナトリー・ルィバコフ)の一節であるが、本家ロシアでも良く誤ってスターリン本人の発言に帰されるらしい。
スターリン影武者説
我々が良く知る「恰幅が良く口髭を蓄えたあの容姿は実は影武者フェリクス・ダダエフ氏のもの」であったといわれている。本物のスターリンは過去に罹患した天然痘の痕が顔に残っていたとされるが、写真加工で痘痕が消されているだけで、本人であるという可能性が高い。一方でスターリンは幼少時に2度馬車に轢かれており、その影響で左腕がほとんど動かず、それが動くのはほぼ偽物といって良いであろう。なおフェリクス・ダダエフ氏は当時24歳の手品師であり、スターリン死後は故郷ダゲスタンに帰郷しその後も故郷で手品師や俳優として活動、ソ連崩壊で文書が公開されてこの事実が明らかになるまで約束を守り続け影武者であった事を語らなかった。彼は2014年時点で存命である。
本名
関連タグ
次代:ゲオルギー・マレンコフ
ホロドモール 大粛清 ヴィーンヌィツャ大虐殺 カティンの森事件 シベリア抑留
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有田芳生:「芳生」はスターリンの名前から取られている。