概要
ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(ロシア語:Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин、ジョージア語:იოსებ ბესარიონის ძე სტალინი、ラテン文字表記の例:Iosif Vissarionovich Stalin、本名:ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ、1878年12月18日 - 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家。第2代ソビエト連邦最高指導者。スターリンは労働者階級と社会主義の擁護者として尊敬されていた一方で、この政権は全体主義的であると広く言われており、ホロドモール・大粛清・ヴィーンヌィツャ大虐殺・カティンの森事件・シベリア抑留などの大規模な弾圧・民族の浄化・大規模な国外追放・数十万人の処刑・飢餓を指揮したとして非難されている。
経歴
1878年12月18日にロシア帝国のジョージアのゴリにて、貧しいジョージア人の家庭に誕生した。父親は靴職人で腕は良かったが事業に失敗したため酒に逃避して暴力を振るう人物で、幼少期に母と共に別居していた。勉学が出来たため神学校に進むが、共産主義運動に共感し、退学させられる。1901年11月にマルクス主義のロシア社会民主労働党に入党し、党の新聞であるプラウダを編集して資金を集めた。レーニンのボリシェヴィキ派に入り、活動資金確保のために強盗・誘拐・みかじめ料を取るような犯罪を実行して数回もシベリアに流刑され、ロシア革命後の1917年11月に民族問題人民委員(省の長官・大臣に相当)に選抜され、更に党の書記局の長官=書記長に就任。これによって党内の事務活動を抑えて幹部の人事権を握る事で自派閥で党内部を固め、政敵を追い落とすことに成功。
1924年1月にレーニンが死去した後は権力争いを征して最高指導者となり、1928年10月に5か年計画を導入し、ソ連は農業の集団化と急速な工業化を経験して中央集権的な経済を創出した。1936年8月に労働者階級の敵を根絶するべく大粛清を実施し、1938年11月に終了するまでの間に68万1692人が殺害され、合わせて137万2382人が政治的な理由で逮捕された。スターリンは共産主義インターナショナルを通じ、外国でマルクス・レーニン主義を推進した。
1939年8月にナチス・ドイツと不可侵条約を締結し、同年9月にソ連はポーランドに侵攻した。同年11月にソ連はフィンランドに侵攻するが、大粛清の影響でソビエト連邦軍は大幅に弱体化していた為、フィンランド軍よりも多くの死傷者を出した。1940年6月にルーマニアのベッサラビアと北ブコビナ・同年8月にバルト3国を併合したが、北ブゴビナを併合したのは独ソ不可侵条約に違反しており、ドイツがソ連に対して不信感を抱く要因の1つとなった。
1941年6月にドイツが不可侵条約を破棄してソ連へ侵攻した事で、3大国の内の1国として第2次世界大戦の連合国に属して、連合国で最も多数の犠牲を出しながらもドイツに多大な損害を与えてこれを撃破した。一方で1941年4月に日本と中立条約を締結したが、1945年8月に破棄して日本へ侵攻し、同年9月までに北方領土の占拠を完了させた。一方で中央・東ヨーロッパ全域と東アジアの一部にソ連の傀儡政権を樹立した後、アメリカとソ連は世界の超大国として君臨し、1947年3月から東西冷戦に突入した。
1949年8月にソ連初の核実験を実施し、ソ連はヨーロッパ初の核保有国となった。1953年3月にモスクワにて74歳で死去し、同年9月にニキータ・フルシチョフが後継となった。1991年12月にソ連が崩壊して以降もスターリンは、世界の超大国としてのソ連の地位を確固たるものとした最高指導者として、ロシアとジョージアで人気を保持してきた。
性格
ジョージア人である事を誇りとし、ロシア語もジョージア訛りで話し、ライフスタイルもジョージア風であった。自分が少数民族のジョージア人でありながら、ジョージア人が現地のカフカースでは支配的な多数派である事を意識していた。そこでウクライナ・ベラルーシなどをソ連の構成国とするレーニン案に対し、全ての非ロシア人少数民族地域を自治区としてロシアに組み込む自治化案を提出した。
一方で独ソ戦の時にロシア人を第一の民族と位置付け、ロシア民族の国粋主義をソ連の防衛に活用した。戦後にはイスラエルの親西側傾向を受け、医師団事件などユダヤ人陰謀論にも思える側面を見せた時期もあるが、大テロル時代も生き抜いた旧知の副官のカガノヴィチはユダヤ人である。人間不信で疑い深く臆病・権力欲と顕示欲が強い性格で、このような性格は独裁者になると一層増幅され、家族・肉親ですら信用せず、被害妄想と言えるほど周りの他人を疑って接していた。
母と長女だけは別であったが、長女の方は恋愛絡みで酷い干渉を受けており、特に最初の恋人がスパイ容疑でシベリア送りとなった件を根に持っていたらしい。スターリンの死後10年経ってからアメリカに亡命し、出版した回顧録で父親を「孤独感と絶望感から来る弾圧マニア」と叩いていた。
逸話
ホーチミンに対する仕打ち
1950年1月にベトナムの共産主義革命を指揮したホー・チ・ミンが極秘にソ連を訪問した事があった。スターリンはホー・チ・ミンをスパイと疑っていたが、ホー・チ・ミンはスターリンに初めて会ったためか感激し、サインを求めた。スターリンは渋々ホー・チ・ミンが差し出した雑誌にサインしたが、すぐこれを後悔して秘密警察に命じて雑誌を秘密裏に回収させてしまった。
その後スターリンはサインが無い事に気付いて慌てるホー・チ・ミンの様子を聞いて喜んだという。後に「あいつはまだ探しているのか?見つける事は出来んぞ。」と嘲笑のタネにしたとも言われる。後年にフルシチョフは自伝記でスターリンのこの行為を指して、「純粋で共産主義的な人物に酷い接し方をした。」と批判している。
またスターリン自身は毛沢東のことも「マーガリン共産主義」と揶揄していた(バターに対する偽物、という意味)。
死因
上記のように直接的な死因は脳卒中だが、間接的には他人を信用しなかった事による発見・治療の遅れが原因ともされる。なお一説にはスターリンから「指示があるまで絶対起こすな。」と厳命された警備責任者がいつまでも指示が来ない事に不審を感じるも、スターリンの怒りを買う事を恐れて何もせず、夜遅くになって部屋に入った家政婦が倒れているスターリンを発見したとされる。
治療の遅れに関しては長女の回顧録で「倒れた際に側近達が居たにも拘らず、やる事なす事に我慢の限界だったのか放置した。」とされており、未だに諸説が入り乱れている。ある側近が「流石に毒には勝てなかった。」と零していたとの記録が存在しており、そのせいで毒殺説が現在まで存在し続けている。
生活
趣味は温室でのレモン栽培、映画(特にアメリカ製)・演劇・音楽鑑賞、読書など。
レモンを来客に食べさせては嬉々として自慢していたが、映画鑑賞に関しては周りにまともなロシア語の翻訳ができる人がいなかった為、映画産業の責任者が必死に暗記したり適当なアドリブで凌いでいたとか。しかしスターリンはむしろ馬鹿げた通訳騒ぎを楽しんでおり、決して専門の通訳を入れようとしなかったらしい。なおスターリンは大衆的な娯楽映画を好んでおり、アメリカ映画を多く取り寄せていたという。
音楽はおよそ2700枚のレコードを持ち、クラッシック音楽を好み、演劇は古典的な演劇、バレエ、オペラを好んでいたが前衛芸術的なものは嫌ったという。
大の読書家で蔵書は約2万冊に及び、それらはクレムリンの住居・別荘にきちんと分類されて置かれていた。本のジャンルも様々で、マルクス・エンゲルス・レーニンの著書などはもちろんの事、哲学書・文学書・歴史書・軍事書・果ては粛清したレオン・トロッキーなどの政敵の著書、ソ連への侵略者であるアドルフ・ヒトラーの『我が闘争』などもあったという。スターリンはこれらを寸暇も惜しんで読みふけり、色鉛筆でアンダーラインを引いたり余白に書き込んだりするのを楽しんだ。訪問客には机上に置かれている新刊の包みを指差して、「私の読書ノルマは毎日500ページだ。」と語ったという。
またビリヤード、歌も上手く、時計収集の趣味もあったという。
飛行機が苦手で、列車での移動がほとんどだった。特異かつ捻じ曲がったユーモアセンスがあり、側近を結構キツイ方法でからかうのが好きで、個人的なお遊び(部下を酔い潰すのが好き)と実益(忠誠度チェック)を兼ねて毎度仕事の終わりに宴会を開催しては部下に酒を沢山飲ませていた。当然側近は例外無く腎臓か肝臓のどちらかがあるいは両方がアルコールでボロボロだったという。
家族
1906年7月にエカテリーナ・スヴァニゼと結婚し、1907年3月に長男ヤーコフが誕生したが、同年11月にエカテリーナが腸チフスで死去した。1919年3月(正式に結婚が登録された日)にナジェージダ・アリルイエバと結婚した。1921年3月に次男ワシーリー・1926年2月に長女スヴェトラーナが誕生したが、1932年11月にナジェージダは死去した(自殺だったとされる)。
長男のヤーコフはナチスに捕虜で捕まり、大戦の後期に敗色が濃厚になったドイツ側は、スターリングラード攻防戦で捕虜になったフリードリヒ・パウルス元帥とヤーコフの交換をソ連側に提案した。しかしスターリンは、「中尉と元帥を交換する馬鹿が何処にいるのかね。」と一蹴した。また逆にヒトラーの親族で捕虜になっていたレオ・ルドルフ・ラウバルとの交換も提案されたが、これも拒否されている。親から見放されたヤーコフはひどく落胆し、直後にナチス・ドイツのザクセンハウゼン強制収容所で電気柵に突進して自殺した。
次男のワシーリ―が軍用航空学校に入学した時には学校に彼に如何なる恩恵も特権も与えず、通常の軍隊宿舎で生活させるように命じたという。
またワシーリーがスターリンの威光を笠に着た時は「お前はスターリンではない。私もスターリンではない。スターリンとはソビエト権力そのものだ。新聞に載るスターリン、肖像画として描かれるスターリン、それがスターリンだ。お前や私などはスターリンではない」と叱責したという。
だが、それだけでなくヤーコフが死んだ報を受けた時は、彼の写真を見つめ、ふさぎ込み食事もせず、嗚咽し、ワシーリーが学校の成績が悪く、校長先生からスターリンに「国家主席でありながら子の教育が出来ないのですか」と批判された時は、「息子が不出来なのは私が至らないからです。どうか許してください」と謝罪するなど、息子達にも少なからず情があったようだ。
余談・その他
語録
- 「愛とか友情などというものはすぐに壊れるが恐怖は長続きする。」
- 「感謝とは犬に悩まされて気分を悪くするようなものだ。」
- 「諸君はドイツからのニュースを聞いたか? 何が起こったか、ヒトラーがどうやってレームを排除したか。ヒトラーという男は凄い奴だ! 奴は政敵をどう扱えばいいかを見せてくれた。」(ドイツでの「長いナイフの夜」事件で、ヒトラーが政敵のエルンスト・レーム率いる突撃隊を粛清したのを聞いての発言。この事件をベースに大粛清を決意したとも言われる)。
- 「赤軍には捕虜は存在しない、存在するのは『反逆者』のみである。」(冬戦争でのロシア人捕虜の話を聞いて)
- 「お母さん、僕はツァーリ(皇帝)みたいな仕事をしているんだよ。」(1935年10月に死期の近づいた母のお見舞いに行き、彼女に「どんな人になったの?」と聞かれた際の発言である。ただ息子の悪名は耳に入っていたのか、母は「司祭になってもらいたかったのにねぇ」と零し、それを知った殆どの人民が大喜びしたとか。ただし直前に「どうして(子供の頃)あんなに僕を殴ったの?」「だからそんなに立派になったのよ」という会話もなされている。)
- 「ろくでなしがくたばりやがった。」(ヒトラーが自殺したという報告を受けて)
- 「日本は最後にはまた這い上がってくる。」(大戦終結直後)
- 「チベット攻撃?結構な事だ。」(毛沢東党主席からチベット侵攻の許可を求められての返事)
- 「北朝鮮は永久に戦い続ければいい。何故なら兵士の人命以外に北朝鮮が失うものは何も無いからだ」(朝鮮戦争について周恩来に語った一言)
- 「私はもうお終いだ。誰も信用できない。自分さえも。」(1951年にフルシチョフに語った呟き)
スターリンの発言によく帰されるが別の人の発言
(Смерть решает все проблемы. Нет человека, и нет проблемы)
1987年4月に出版された『アルバート街の子供たち』(著作:アナトリー・ルィバコフ)の一節だが、本家のロシアでもよく誤ってスターリン本人の発言に帰されるらしい。
スターリン影武者説
我々がよく知る「恰幅がよく口髭をたくわえたあの容姿は実は影武者のもの。」であったと言われている。本物のスターリンは過去に罹患した天然痘の痕が顔に残っていたとされるが、写真の加工で痘痕が消されているだけで、本人であるという可能性が高い。一方でスターリンは幼少時に2度馬車に轢かれており、その影響で左腕がほとんど動かず、それが動くのはほぼ偽物と言って良いだろう。
本名
- ヨシフ(正確なロシア語発音はイオシフ)・スターリン
- ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(ロシア語)
- イオセブ・ベッサリオニス・ヅェ・ジュガシヴィリ(ジョージア語)
関連タグ
次代:ゲオルギー・マレンコフ
ホロドモール 大粛清 ヴィーンヌィツャ大虐殺 カティンの森事件 シベリア抑留
ロシア革命 シベリア出兵 ノモンハン事件 ポーランド侵攻 冬戦争 独ソ戦 継続戦争 ソ連対日参戦
有田芳生:「芳生」はスターリンの名前から取られている。