レオニード・ブレジネフ
れおにーどぶれじねふ
所属国 | ソビエト連邦 |
---|---|
出生日 | 1906年12月19日 |
死亡日 | 1982年11月10日(75歳) |
出生地 | ロシア帝国 イェカチェリノスラフ県カーメンスコエ |
死亡地 | ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ |
所属政党 | ソビエト連邦共産党 |
出身校 | ドニエプロジェルジンスク冶金大学 |
宗教 | 無神論 |
配偶者 | ヴィクトリア・ブレジネワ(婚姻期間:1927年11月 – 1982年11月) |
子女 | 2人 |
その他 | ソビエト連邦軍の軍人として勤務(1935年10月 – 1954年2月) |
レオニード・イリイチ・ブレジネフ(ロシア語:Леони́д Ильи́ч Бре́жнев、ウクライナ語:Леонід Ілліч Брежнєв、ラテン文字表記の例:Leonid Il'ich Brezhnev、1906年12月19日 - 1982年11月10日)は、ソビエト連邦の政治家。第4代ソビエト連邦最高指導者。1964年10月から1982年11月までその地位にあり続け、フルシチョフの後任として党書記長(当初は第一書記)となり、1977年6月から最高会議幹部会議長を兼任した。統治は政治的な安定性と外交上の成功という性格を持ち、腐敗・非効率・経済停滞・急速に開いた西側諸国との技術的な格差によって特徴付けられた。
初期
1906年12月19日にロシア帝国のイェカチェリノスラフ県カーメンスコエにて、ロシア人の父とウクライナ人の母との間に誕生した。1931年9月にドニエプロジェルジンスク冶金大学に入学して冶金学を学び、1935年5月に卒業した後はウクライナ東部にある製鉄・製鋼工場で冶金技術者として勤務した。1929年10月に党の中央委員候補となり、1931年10月に正式な党員となった。1935年10月に義務的な軍務に服し、戦車学校に於ける講習を受けて戦車工場のコミッサールとなった。
大粛清
1936年8月に実施されたスターリンによる大粛清の最中に、ブレジネフはアパラーチクの中の受益者の1人となった。同年11月にドニエプロジェルジーンスク冶金技術テフニクム(技術大学)の校長となり、ドニエプロペトローフスクの中心へと移った。1937年5月にカーメンスコエ市ソヴィエトの副議長となり、1938年5月にフルシチョフがウクライナ共産党の実権を掌握した後、ブレジネフはドニエプロペトローフスク州の共産党プロパガンダ部局長となった。
大戦前・戦時中
1939年2月に地区党書記に任命されて市の防衛産業の責任者となり、この時に支持者たちのネットワークを築き上げる事になった。これはドニエプロペトローフスク・マフィアとして知られるブレジネフが権力を上昇させるのを大いに助ける事になり、1941年6月に独ソ戦が開戦して軍の政治委員として活動した。1943年4月に第18軍の政治部長になり、1946年4月に少将の階級で赤軍を去ってドニエプロペトロフスク州共産党委員会に復帰して第一書記となる。ブレジネフはここでの人脈を権力の強化に利用し、彼らはドニエプロペトロフスク・マフィアと呼ばれた。
終戦後
1952年10月に党中央委員会と最高会議幹部会の構成員となり、1953年3月にスターリンが死去してからはフルシチョフの後援によって軍政治総局長第1代理に任命された。1954年2月にカザフスタン共産党中央委員会第二書記となり、1955年8月に党中央委員会第一書記としてカザフスタンの開拓事業を指導した。1956年2月にモスクワへ戻ってフルシチョフの側近となり、1957年6月にスターリン派との権力闘争でフルシチョフを支持して政治局員となる。
国家元首・最高指導者
1960年5月に最高幹部会議議長に就任して名目上の国家元首になり、この時西側諸国に外遊した事で高級車・ブランド品に対する欲望が高まる。1964年10月にフルシチョフが失脚した後に党第一書記となり、その後継として第4代最高指導者となった。1965年12月にアナスタス・ミコヤンが最高会議幹部会議長を辞任し、党はブレジネフ・コスイギン・ポドゴルヌイのトロイカ体制となり、コスイギンは経済改革を提唱した事で保守派の反発を招いてブレジネフの発言権が増した。
アメリカ合衆国
1971年12月に国際連合総会でのアルバニア決議にはソ連も賛成して中国(中華人民共和国)が国際社会から承認を得るも、1972年2月にアメリカのリチャード・ニクソン大統領が中国を訪問してアメリカと中国が接近した。これを受けてソ連に対する米中同盟を防ぐ為にアメリカとの交渉に於ける新たなラウンドを開き、同年5月にニクソン大統領がソ連を訪問して戦略兵器制限条約を締結してデタント(緊張緩和)の始まりとなった。1973年1月にパリ和平協定を締結してベトナム戦争を公式に終了させた後、アメリカとソ連の外交関係は障害が取り除かれた。
アフガニスタン
1979年12月に反政府ゲリラの対応に苦慮していたアフガニスタンに干渉する決定を下した事は、ブレジネフの後継者に対する最終・致命的な遺産となった。同月にソ連・アフガン戦争を開戦してアメリカとのデタントは終焉し、これが原因で1980年7月に社会主義共和国で初めて開催されたモスクワオリンピックは、この戦争を非難する諸国からボイコットされた。
チェコスロヴァキア
1968年1月にチェコスロバキアのアレクサンデル・ドゥプチェク党第一書記による改革(プラハの春)に危機感を持ち、修正主義と批判してワルシャワ条約機構軍を軍事介入させた。介入を正当化する論理は西側ではブレジネフ・ドクトリンと呼ばれたが、ソ連に対する期待が失われて国際共産主義運動は分裂し、中国共産党はドゥプチェクとソ連指導部を修正主義と非難した。
中華人民共和国
1969年3月にウスリー川のダマンスキー島(珍宝島)で武力衝突が発生し、ブレジネフの治世では中国との関係は悪化し続けた。
日本
1973年10月に田中角栄総理と会談して共同声明を発表し、ここでは「第2次世界大戦当時から続いている懸案事項を解決して平和条約を締結する事が、両国の友好関係を確立するのに寄与する事を認識し、平和条約の内容に関する問題について交渉する。」という事項が示された。ブレジネフは北方4島の問題が戦後の解決していない諸問題の中に含まれる事を口頭で確認し、ヤクートの天然ガス・チュメニ油田・サハリン大陸棚の共同開発などの日本との経済協力を打ち出した。
ブレジネフに関連するアネクドートは以下のものなども含めて無数にあり、ちなみにブレジネフが党幹部となった後も、母のナタリアは年金受給者として古いアパートで暮らし続けた。
ブレジネフの受賞歴一覧を参照。