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概要編集

ユーリ・ウラジーミロヴィチ・アンドロポフ(ロシア語:Ю́рий Влади́мирович Андро́пов、ラテン文字表記:Yurii Vladimirovich Andropov、1914年6月15日 - 1984年2月9日)は、ソビエト連邦の政治家。第5代ソビエト連邦最高指導者。中央委員会書記長、最高会議幹部会議長を兼任した。党中央委第二書記、第4代KGB議長、上級大将を歴任した。詩人としても知られる。


書記長に就任した後は、ブレジネフ時代に蓄積された停滞と腐敗の一掃・労働規律の強化に乗り出したものの、就任半年後に病に倒れ、十分な成果を収められなかった。しかし彼の構想の一部は、自らが目を掛けて引き立ててきた同郷の後輩であるミハイル・ゴルバチョフに引き継がれた。


経歴編集

1914年6月15日にロシア帝国のスタヴロポリ地方ナグツカヤに誕生する(公式記録による)。アンドロポフの家族に関する情報は謎めいており、明らかになっていない点も多い。父はドン・コサックの家系の鉄道労働者であり、アンドロポフが幼少の頃の1919年にチフスに罹患して亡くなったとの説もある。1936年にルイビンスク水運技術専門学校を卒業し、ヴォルガ蒸気船などに勤めた。


1939年に共産党に入党。党中央委員会附属高等党学校を卒業後の1940年からカレリアのコムソモール(共産主義青年同盟)第一書記を務め、フィンランドと国境を接するカレリア自治共和国を担当する。独ソ戦が始まるとカレリアでパルチザン活動に入り、1944年にその首都のペトロザボーツクが解放された後、同市での党活動に移る。1947年にカレリア党第二書記に就任した。住民にフィン人(カレリア人)を多く抱え、ソ連・フィンランド戦争で一時フィンランド軍の占領を受けるなど、複雑な事情を抱えていた地域で指導者として政治的力量を認められた。


駐ハンガリー大使編集

1951年にオットー・クーシネンの推薦で共産党の国際活動・外交及び諜報部門に活動の場を移し、1954年7月には駐ハンガリー大使に任命された。2年後の1956年にハンガリー動乱が勃発し、ハンガリー国民は蜂起して社会主義の打倒を目指した。アンドロポフはこの事件を「反革命、反社会主義の暴動」と非難し、ソ連の指導部と連絡を取りつつ軍を派遣してハンガリーの社会主義政府を支援すべきだと考える。彼は軍事介入に消極的だったフルシチョフ第一書記を説得し、ソビエト連邦軍の派兵を実現させた。結果的には動乱鎮圧に成功したものの、その過程で2500人以上が死亡し、ハンガリーの指導者は逮捕され、同国のナジ・イムレ首相は処刑された。その冷酷な弾圧手法が故に、アンドロポフは西側諸国から「ブダペストの虐殺者」として知られることになった。


共産党中央委員会へ編集

1957年にアンドロポフはモスクワに戻り、党中央委員会の社会主義諸国共産党・労働者党連絡部長に任じられる。また、中ソ会談代表として中ソ論争に深い関わりを持つ。アンドロポフは、その職責の中にあってもハンガリーでの出来事を忘れることはなかった。ソ連の外交官オレグ・トロヤノフスキーによると、アンドロポフはハンガリー動乱について「あなた方は、それがどんな様子だったか到底想像できまい。何十万人もの人々が街にあふれ、完全に制御不能になっていた。」と語り、その後も折に触れ話し続けたという。その様子とは怒り狂った群衆が警官を殺害していた様子である。アンドロポフは、ソ連でそうした光景を目にすることを恐れ、それを防ぐ為に全力を尽くしていたと言われている。1961年の第22回党大会以降は中央委員となった。1962年には中央委員会書記に昇進した。


KGB議長として編集

1967年に中央委員会を離れ、ミハイル・スースロフの推薦で国家保安委員会(KGB)議長に就任し、1982年に書記に復帰するまで以後15年の長きに渡って同職を務めることとなる。KGB議長就任と同時に政治局員候補となり、1973年に投票権のある正規の政治局員となる。秘密警察の責任者が政治局に入るのはラヴレンチー・ベリヤ以来のことであった。これはベリヤ追放後にフルシチョフの発意で、軍と秘密警察を党の統制下に置くため、国防相と同じくKGB議長の政治局入りを禁止してきたのを、ブレジネフが解禁した結果であった。1973年にはアンドレイ・グレチコ国防相も政治局員となっている。


KGB議長としては外交面での緊張緩和(デタント)がソ連国内でイデオロギーを弛緩させることに関して警戒し、峻厳な治安政策をとった。


反体制派の抑圧編集

アンドロポフはKGB議長の任にあった間、「人権のための闘争はソビエトの国家基盤を弱体化させる帝国主義の陰謀である」と主張し、反体制派の弾圧に取り組んだ。1967年7月3日にアンドロポフはイデオロギーに関する政治犯に対処するため、KGBに第5総局を設立する提案をして同月末に設立された。1969年1月のブレジネフ暗殺未遂事件後、アンドロポフは拘束された狙撃犯のヴィクトル・イリインの尋問を主導し、イリインを「狂人」と断定して精神病院に強制収容させた。同年4月29日にアンドロポフは党中央委員会に対し、反体制派から「ソビエト政府及び社会主義秩序」を守るための精神病院のネットワーク構築計画を提出した。


さらに、アンドロポフの提案が聞き入れられる形で、反体制派との闘争に精神医学が利用されるようになった。その後、数十人の反体制派が「精神病」を口実にして精神病院に収容され、さらに数十人がソ連国外に追放された。その中で、アレクサンドル・ソルジェニーツィンを国外追放とし、アンドレイ・サハロフをゴーリキーに流刑にするなど反対派の弾圧に辣腕を振るった。一方で、KGB議長としてソ連内外の情報を管理・知悉する立場から、ブレジネフ政権時代の後半の「停滞の時代」にあって危機意識を強め、体制内改革を志向するようになっていった。汚職の摘発にも辣腕を振るい、ブレジネフの親族の逮捕にも大鉈を振るった。KGB議長が政治局に入ることを禁止したフルシチョフの措置を解禁させたブレジネフであったが、その措置によって強大な権力を得たアンドロポフに求心力を削がれていくという皮肉な結果になっていった。


1975年7月にアンドロポフはロシア皇帝だったニコライ2世とその家族が、1918年7月に殺害されるまで幽閉されていた家が聖地化していた現状を危惧し、ブレジネフに同家の撤去を進言した。政治局の承認により、1977年9月にスヴェルドロフスク州党第一書記のボリス・エリツィンの指揮の下で取り壊された。


アンドロポフの反体制派抑圧計画の中には、1961年に亡命したダンサーのルドルフ・ヌレエフを殺傷する計画も含まれていた。また、フョードル・クラコフやピョートル・マシェーロフらソ連の政治家の突然死の黒幕はアンドロポフであると考える人もいる。2013年に機密解除された文書には、KGB議長たるアンドロポフがジョン・レノンの死(1980年12月)を追悼する無許可の集会の開催を防ぐよう指示した旨が記されている。


プラハの春編集

1968年のプラハの春に際しては、チェコスロバキアに対して取られている「極端な」措置を支持した。KGB工作員によってワシントンからもたらされた「CIAも他の機関もチェコスロバキアの改革運動に関与していないことを証明する確かな資料を手に入れた」との報告も、アンドロポフの考えていた陰謀論と矛盾していたため聞き入れられなかった。アンドロポフは、チェコスロバキア共産党第一書記のアレクサンデル・ドゥプチェクら同国の改革者に対して「革新作戦」と称される積極的な措置を命じた。


アフガニスタン侵攻での役割編集

アフガニスタン民主共和国への軍事介入の是非が議題となった1979年3月の政治局会議の時点で、アンドロポフは介入に反対していた。国際社会からの批判や今後予定されていたアメリカのジミー・カーター大統領との戦略兵器制限交渉に影響を与えるのではないかと懸念したためである。しかし後に考えを改め「いかなる状況でもアフガニスタンを失うことはできない」と、ドミトリー・ウスチノフ国防相と共に軍事介入を主張し、同年12月24日にソビエト連邦軍はアフガニスタン侵攻を開始した。同侵攻は結果としてアンドロポフの懸念通り、1980年のモスクワオリンピックへの西側諸国のボイコットを招き、一部にはソビエト連邦の崩壊に繋がったと考える人もいる。


ポーランド民主化運動編集

1980年のポーランド民主化運動発生後、ポーランドのヴォイチェフ・ヤルゼルスキ国防相(後に同国大統領を務める)と面会した。1981年12月10日にポーランドの連帯運動に直面したアンドロポフは、スースロフ、ヤルゼルスキと共にブレジネフに対してポーランドに軍を派遣すべきでは無いと進言した。アンドロポフはソ連が「プラハの春」の二の舞を演じることを恐れていた。従ってポーランドの鎮圧にはヤルゼルスキ以下ポーランド軍がこれに当たることになり、これをもってブレジネフ・ドクトリンは終焉したものと捉えられる。


ちなみに編集


関連動画編集

Soviet National Anthem 1984

アンドロポフの隣にゴルバチョフがいる・・・


関連編集

ソ連 ソビエト連邦共産党

先代 レオニード・ブレジネフ

次代 コンスタンティン・チェルネンコ

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