ミハイル・ゴルバチョフ
みはいるごるばちょふ
ミハイルは求めた、「1つのソ連」である事を。
ミハイルは求めた、「自由なソ連」である事を。
ソ連が「平和な世界の住人」である事を。
ミハイル・セルゲイヴィッチ・ゴルバチョフ(ロシア語:Михаи́л Серге́евич Горбачёв、ラテン文字表記:Mikhail Sergeevich Gorbachev、1931年3月2日 - 2022年8月30日)は、ソビエト連邦の政治家。第7代ソビエト連邦最高指導者。1985年3月に最高指導者となり、1991年12月にソ連が崩壊するまでその地位にあった。西側諸国では自由主義的な改革姿勢・冷戦を終結させた事から絶大な人気を誇った一方で、ロシアでは超大国のソ連を崩壊に導いたとして評価は低い。
1931年3月2日にソビエト連邦のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のスタヴロポリ地方プリヴォリノエにて、ロシアとウクライナの血を引く貧しい農民の家庭に誕生した。ゴルバチョフは若手時代に集団農場でコンバイン収穫機を運転し、1952年10月に共産党に入党した。1950年9月にモスクワ大学法学部に入学し、1955年6月に法学の学位を取得して卒業した。
1955年8月にスタヴロポリ市コムソモール第一書記・1962年3月にスタヴロポリ地方コムソモール第一書記・1966年9月にスタヴロポリ市党第一書記・1968年8月にスタヴロポリ地方党第二書記を経て、1970年4月にスタヴロポリ地方党委員会第一書記に就任し、1971年3月に40歳で党中央委員に選出される。1978年11月に急死したフョードル・クラコフ政治局員・書記の後任として、党中央委員会農業担当書記に抜擢され、1979年11月に政治局員候補・1980年10月に政治局員となった。
1985年3月にチェルネンコが死去すると、ゴルバチョフは後継の最高指導者となった。そこではソ連とそのマルクス・レーニン主義の理想を維持する事に尽力したが、生き残る為には大幅な改革が必要であると信じていた。1989年2月にアフガニスタンからソビエト連邦軍を撤退させ、同年12月にアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領とマルタ会談を開催し、1947年3月以来続いた東西冷戦を終結させた。国内ではグラスノスチで言論と報道の自由が認められた一方で、ペレストロイカは経済的意思決定を分散化して効率性を向上させる事を目指した。
1991年8月に党の保守派がゴルバチョフに対して、クーデターを起こしたものの失敗に終わった。この後に解放されたゴルバチョフは同年12月に大統領を辞任し、アメリカと並ぶ超大国であるソ連の歴史に幕を下ろした。同月にゴルバチョフ財団を設立してエリツィンとプーチンを声高に批判し、ロシアの社会民主主義運動の為に活動した。2022年8月30日に腎臓疾患で入院していたモスクワ市内の病院にて91歳で死去し、これでソ連時代の最高指導者は全て故人となった。
1953年9月にライーサ・マクシモフナ・ティタレンコと結婚し、1957年1月に娘のイリーナが誕生した。ライーサはモスクワ大学の哲学科の学生で、ゴルバチョフとはこの大学で出会った。ファーストレディとして夫の横で公の場に姿を現す事は国内では珍しかったが、ソ連のイメージを人間味豊かにするのに大いに貢献した。1999年7月に白血病と診断され、同年9月に67歳で死去した。
- 那覇市役所には沖縄の若者に寄せた平和を訴えるメッセージが刻まれた記念碑が設置されており、2001年11月に翁長雄志市長(当時)に色紙を贈呈した。
- 「ぷよぷよ」で知られるコンパイルが、彼をモデルにした「ゴルビーのパイプライン大作戦」を発売した。
- 「スト2」では、ザンギエフの先輩として、ゴロバチョフという名前で登場した。ザンギエフのエンディングに突如現れ、一緒にコサックダンスをした。
- 2003年3月には愛知県東郷町でパチンコを楽しんだ。
- 2010年2月22日放送の『SMAP×SMAP』に、ひ孫と出演した。のち世界一受けたい授業にも出演した。当然、ソ連の書記長どころか東側諸国指導者で日本のバラエティ番組に出演したのはゴルビーだけである。
- 漫画『ONEPIECE』の五老星に彼をモデルにしたと思われる人物がいる→リンク先ネタバレ注意!
- ロシア国内では蛇蝎のごとく嫌われており、アネクドートでは彼を揶揄したジョークがたくさんある。例えば⋯
『寿司屋へ行ったゴルバチョフ。しかし出されたネタがなんと生のイカ。ゴルバチョフは店主へ文句を言った。「おい君!なんだいこれは!」店主は言った「ペレストロイカ!(改革)」ゴルバチョフ「イカが飛び出てるぞ!」店主「グラスノスチ!(情報公開)」
2022年2月にロシア・ウクライナ戦争が発生し、ロシアにとって思わしくない状況になると、プーチン政権は政府に対する不満を高めないように情報統制を強化し、非政府系メディアに統制を実施した。アレクセイ・ベネディクトフは独立系ラジオ局である「ロシアのこだま」を運営していたが、閉鎖に追い込まれた際に雑誌である『フォーブス・ロシア』の取材で、ゴルバチョフについて以下のように語った。ただしベネディクトフの発言は、ゴルバチョフの直接の発言では無い。
- 「ミハイル・ゴルバチョフがやってきた事は全て破壊された。ゴルバチョフの改革は全てゼロに、灰に、煙になった… ゴルバチョフが去った時、ヨーロッパのNATOの緊急対応部隊に残ったのは4000人だった。今日、NATOは来年末までにそれが30万人になるだろうと明らかにしている。」
- 「もちろん、ゴルバチョフは腹を立てている。彼は分かっている。あれは彼の生涯をかけた仕事だった。自由がゴルバチョフの仕事だった。ロシア正教会に誰が自由を与えたのか、皆がもう忘れてしまった。ミハイル・ゴルバチョフだ。私有財産… ミハイル・ゴルバチョフだ。彼なら今、何と言うだろう?」