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概要編集

コンスタンティン・ウスチーノヴィチ・チェルネンコ(ロシア語:Константи́н Усти́нович Черне́нко、ラテン文字表記の例:Konstantin Ustinovich Chernenko、1911年9月24日 – 1985年3月10日)は、ソビエト連邦の政治家。第6代ソビエト連邦最高指導者。中央委書記長、最高会議幹部会議長を兼任した。


ブレジネフに連なる守旧派の一人であり、1982年11月にブレジネフが死去した時に後継者と目されていたが、改革派であるKGBユーリ・アンドロポフ議長が書記長に就任したことで1度は敗北した。しかし1984年2月にアンドロポフが死去し、党書記長兼最高幹部会議長として最高指導者の地位に付いた。ちなみにアンドロポフが後継者と目していたのは、ミハイル・ゴルバチョフであった。


ブレジネフ時代への回帰を目標としたものの、アンドロポフの国葬時から目に見えて衰弱しており、階段の上り下りも満足に行えない有り様だった。西側諸国では度々チェルネンコの重病ぶりが取り沙汰されており、その懸念は的中することとなる


経歴編集

1911年9月24日にロシア帝国のクラスノヤルスクのノヴォショーロヴォ地区ボリシャヤ・テシ村に誕生する。1929年にコムソモールに入り、同年にノヴォショーロヴォ地区宣伝・煽動部長となる。1930年に軍に志願し、ソ連と中華民国の間の国境警備隊に配属される。


1931年に共産党に入党し、軍の除隊後はクラスノヤルスク地方党宣伝部副部長、クラスノヤルスク地方党書記を務めた。モルダビア(現在のモルドバ)のキシニョフ教育大学を卒業し、1945年にペンザ州党委員会書記、1948年にモルダビア共和国共産党中央委員会宣伝扇動部長となる。


1956年に党宣伝部大衆煽動活動課長に登用され、1960年5月にブレジネフが最高会議幹部会議長(国家元首に当たる)に就任すると同時にその首席補佐官に就任した。1964年10月にフルシチョフが失脚し、ブレジネフが第一書記(1966年4月に書記長に改称された。)に就任すると、1965年8月に党中央委員会総務部長となった。1971年に中央委員会委員、1976年3月に中央委員会書記、1977年10月に政治局員候補、1978年11月に政治局員となった。


1977年に憲法改正委員会の委員として新憲法の制定に尽力した。1984年2月に最高指導者となり、死去する1985年3月までその地位にあった。


1985年3月10日にモスクワにて、肺気腫で死去した。これによってブレジネフ、アンドロポフと続く老人支配の時代の幕引き役を演じ、若いゴルバチョフに政権を委ねることになる。


功績編集

改革派とされたアンドロポフの人事に手をつける前に死去した為、これによりゴルバチョフが昇進する結果となった。

要するに何かする前に死んだってことだ。


他には

  • モスクワ五輪ボイコットの報復としてロサンゼルス五輪ボイコット
  • 只今よりアメリカ、日本両国と交戦状態に突入する。という通信を送り、日米両国を混乱させた。これはレーガンの「我々はあと5分後に爆撃を開始する」というジョークに対する報復である。



ブレジネフ→アンドロポフ→チェルネンコの流れは葬儀の時代と呼ばれる。82年にブレジネフが死去してから85年3月にチェルネンコが死去するまで約3年半ほどの間であった。


関連タグ編集

ソ連 ソビエト連邦共産党

先代 ユーリ・アンドロポフ

次代☞ミハイル・ゴルバチョフ

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