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概要編集

所属国アメリカ合衆国
出生日1924年10月1日
死亡日2024年12月29日(100歳)
出生地アメリカ合衆国 ジョージア州プレーンズ
死亡地上に同じ。
所属政党民主党
出身校アメリカ海軍兵学校、ジョージアサウスウェスタン大学、ジョージア工科大学
宗教
配偶者エレノア・ロザリン・スミス(婚姻期間:1946年7月 - 2023年11月)
子女4人
その他海軍の軍人として勤務(1946年6月 - 1961年12月)

ジェームズ・アール・"ジミー"・カーター・ジュニア(英語:James Earl "Jimmy" Carter, Jr.、1924年10月1日 - 2024年12月29日)は、アメリカ合衆国の政治家。第39代アメリカ合衆国大統領。対話による平和的な外交を打ち出した異例の大統領であり、大統領時代と対照的な退任した後の高い外交実績から、史上最強の元大統領という賞賛と皮肉の混ざった異名を持っている。


生涯編集

初期編集

1924年10月1日にジョージア州プレーンズにて、ピーナッツ農家(面積:約146ヘクタール)の4人兄妹の第1子として誕生した。1946年6月に海軍兵学校を卒業して海軍の軍人となり、1961年12月に軍務を終えた後は故郷に戻って家業を再開し、ジョージア州で上院議員(1963年1月 - 1967年1月)と州知事(1971年1月 - 1975年1月)を務めた。1976年アメリカ合衆国大統領選挙では民主党から出馬し、同年7月に党の大統領候補として正式指名された。副大統領候補にウォルター・モンデール連邦上院議員を選択し、共和党のジェラルド・フォード大統領とネルソン・ロックフェラー副大統領のペアに297人の選挙人を獲得して僅差で勝利した。


大統領編集

1977年1月に第39代アメリカ合衆国大統領に就任し、まずベトナム戦争の徴兵忌避者を全て恩赦した。節約・価格統制・新たな技術を盛り込んだ国家エネルギー政策を作成し、スタグフレーションにも対処したと共にエネルギー省と教育省を設立した。1980年アメリカ合衆国大統領選挙では再選を目指して出馬し、共和党のカリフォルニア州ロナルド・レーガン前州知事とジョージ・H・W・ブッシュ前中央情報長官のペアと一戦を交えたが、489人の選挙人を獲得されて敗北した。


外交ではトリホス・カーター条約(1977年9月)、キャンプ・デービッド合意(1978年9月)、第2回戦略兵器制限交渉(1979年6月)を成功裏に推進し、1期4年に及んだ在任期間での最後の2年間は中国との外交関係樹立(1979年1月)、イランアメリカ大使館人質事件(同年11月)とイラン革命によるエネルギー危機(同年2月)、スリーマイル島原発事故(同年3月)、ニカラグア革命(同年7月)、ソ連・アフガン戦争(同年12月)で特徴付けられた。戦争に対応してカーターはデタントの終了、ソ連に対する穀物禁輸措置(1980年1月)、カーター・ドクトリンの宣言(同月)、1980年モスクワオリンピックのボイコットなどで冷戦を激化させた。


退任後編集

1981年1月に大統領を退任した後、1982年4月にジョージア州アトランタで人権の促進と拡大を目的としたカーター・センターを設立した。2002年12月に人権に関連した活動でノーベル平和賞を受賞し、和平交渉・選挙監視・感染症撲滅の為に世界各国を訪問した。政治の回想録から詩に至るまで多数の著書を執筆する一方で、国際情勢に関するコメントも出している。その中でイスラエル・パレスチナ戦争に関する2冊の著書があり、イスラエルによるパレスチナ人の扱いをアパルトヘイトと批判している。歴史家や政治学者の世論調査では概して平均以下の大統領と評価されているが、学者や一般大衆はアメリカ史上最長となった退任した後の任期を好意的に見ている。


2015年8月に肝臓ガンを摘出する手術を受けたが、後に脳にも転移していた事が判明して入退院を繰り返すようになり、2023年2月に余生を自宅で過ごすと公言してホスピスケアを続けていた。2024年10月1日に満100歳となる誕生日を迎え、アメリカ大統領経験者としては史上初めて誕生から1世紀を超えた者となった。



死去編集

満100歳となった約3か月後の2024年12月29日、ジョージア州プレーンズにて死去したとカーター・センターが発表した。直接の死因については明らかにされていない。


カーターの遺体はワシントンD.C.の連邦議会議事堂に安置された後にワシントン大聖堂へ移動。2025年1月9日に現職のジョー・バイデンを含む5人の大統領経験者や各国代表が揃うなか国葬が行われた。遺体は故郷のジョージア州へと送られ、2023年11月に先立った妻ロザリン夫人の隣に埋葬された。

外交編集

前任のニクソン時代から実施していたソ連との対立の解消を目指す交渉活動を継続し、大規模な軍縮・諜報機関の予算の削減など、人権外交と呼ばれる穏健的な外交を実施した。


日本編集

1979年4月に大平正芳総理大臣がアメリカを公式訪問し、同年5月にワシントンD.C.で会談した時は緊密な友好関係に相応しく打ち解けた雰囲気で開催された。


中華人民共和国編集

1979年1月に台湾島に追いやられて弱体化した中華民国と外交関係を断絶し、大陸部分を実効支配する社会主義共和国の中華人民共和国と外交関係を樹立して中国を訪問した。


エジプト・イスラエル編集

1978年9月にエジプトのアンワル・サダト大統領とイスラエルのメナヘム・ベギン首相を別荘であるキャンプ・デービッドに招待して3者会談を開催し、同月にキャンプ・デービット協定が締結されるなど一定の成果があった一方でアラブ諸国は猛反対した。この合意によって1979年3月にエジプトとイスラエルの間で平和条約が締結され、シナイ半島はエジプトに返還された。


イラン編集

イラン革命編集

1979年2月にイランでパフラヴィー政権が革命によって打倒され、パフラヴィー政権の崩壊はカーターのイメージを大きく引き下げる原因となった。同年11月に亡命したパフラヴィー元皇帝をアメリカに入国させた為、イランは反発してアメリカに抗議した。同月にアメリカ大使館を占拠して大使・職員・その家族を人質に籠城する事件が発生し、この事件でのイランの対応は外交関係に関するウィーン条約の規定に違反しており、諸外国からの非難には全く耳を貸す事は無かった。


アメリカの対応編集

1980年4月にカーターはイランに対して外交関係の断絶・経済制裁を実施し、イランのスイス大使館がアメリカの利益代表を務める事となった。同月にアメリカ軍による武力作戦を計画・実行したが、作戦中に死亡事故が発生して失敗に終わった。結局武力での解決を計画していた事がイランに発覚し、解決する為の交渉が更に難航してしまった。この事件は1981年1月に全ての人質が解放されて解決したが、偶然にもこの日はレーガンが大統領に就任した日であった。


余談や逸話編集

  • 1946年7月にエレノア・ロザリン・スミスと結婚して3男1女が誕生し、2019年10月にジョージ・H・W・ブッシュとバーバラ・ピアースを抜いて最長の夫婦となり、2022年7月に結婚から76年を迎えた。カーターはエルヴィス・プレスリーの個人的な友人であり、プレスリーがアトランタのステージで演奏する前の1973年6月に彼とロザリンに会った。
  • 大統領経験者で唯一潜水艦の搭乗員を経験している事から、1998年4月に3番目で最後のシーウルフ級原子力潜水艦に「ジミー・カーター」の名称が付けられた。
  • カーターは2024年12月に死去するまで存命している大統領経験者の中で唯一、第2次世界大戦が開戦する以前の生まれで、歴代大統領でも最長寿である上に退任してからの期間が最も長く、冷戦時代に大統領であった最後の人物でもある。カーター没後、存命最高齢は1942年11月生まれのジョー・バイデンへと移った。

関連リンク編集

ジミー・カーター(ウィキペディア)

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