概要
第68・69代内閣総理大臣。
来歴
1936年に大蔵省預金部に配属後、翌1937年には横浜税務署長に就任。以降も短期間で上級職に進み、約13年で国税庁関税部消費税課長と池田勇人(大蔵大臣当時)秘書官を兼任する目覚ましい出世を遂げた。その後、池田の誘いを受けて自民党へ入党し、衆議院選挙で初当選。1957年から池田派閥『宏地会』(こうちかい)に所属し、宮澤喜一らと共に経済政策のブレーンとして池田を補佐した。
池田内閣で内閣官房長官(第1-2次および第1次改造内閣)・外務大臣(第2改造内閣および第3次)、佐藤栄作内閣で通商産業大臣(第2次改造内閣)、田中角栄内閣で外相(第1-2次および第1次改造内閣)・蔵相(第1-2次改造内閣)、三木武夫内閣で蔵相(三木内閣および改造内閣)と5つの内閣で数々の重席を歴任し、1978年12月7日に第68代首相に就任。
続く第69代首相任期中、野党の日本社会党が提出した内閣不信任決議案が可決された珍事『ハプニング解散』(敵対していた三木派、福田派など反主流派の大量欠席が原因)で衆議院を解散する事態となり、第36回衆院選と第12回参院選が行われる6月22日の衆参同日選挙に向けて活動を始めた1980年5月30日に「過労に起因する不整脈」で体調を崩し、静養中の6月12日午前5時54分に「心筋梗塞に起因する急性心不全」により病没。享年70。
青年将校の急襲によって犬養毅が暗殺された五・一五事件以来の「現職総理の死去」となり、後任は盟友であり大平を影で支えた鈴木善幸が担った。
功績
池田内閣の外相として日韓交渉、田中内閣における日中交渉の矢面に立ち、長期政権を誇った佐藤内閣が遂に成し得なかった『日中国交正常化』を1972年9月に田中・周恩来との共同声明によって締結させる立役者となった。
これに加え、数々の大臣経験と大蔵族出身の視点から財務面に基づいた外交・内政改革案に精通し、多くの構想を立案した。その1つに「三木内閣入閣時の蔵相時代に赤字国債発行を断行したしわ寄せを後世に残さないように」と提唱した『一般消費税導入案』があったが、当時は世論の強烈な反発に遭って断念せざるを得ず、ちょうど10年後に当たる1989年4月1日に竹下登内閣が導入を宣言、実施した。
他方、現在に通じる構想、あるいは国内外で現実化した構想を1970年代当時に予見した先見性の高さが近年になって注目され、大平の再評価に繋がっている。大平の後任として首相を務めた鈴木もこの事を高く評価したものの、「苛烈な党内抗争のせいで満足な成果を実現できなかった。哲学者、思想家と言われた彼の著書や文献は非常に深い思索、思想を持ち、個人の政治家としては大変な業績を残したが、実際にやった仕事は政界の泥沼の中に埋没してしまった(要約)」と時代の悪さを苦々しく語っている。
虚と実
どっしりと腰の据わった風貌、大らかな顔相に似合った物腰柔らかくゆったりとした発言で『讃岐の鈍牛』(さぬきのどんぎゅう)と揶揄され、首相就任後は演説や答弁の際に「あー…」「うー…」と前置きすることから『アーウー宰相』とも呼ばれ、口を横に広げて絞り出すような前置きを交えつつ一節ずつ悠然と語る様子は子どもを中心にものまねされるなど、当時の流行語にすらなった。
大平自身、この口癖について「大平さんは、あーうーである。あーうーの大平さんということで、この頃、声帯模写でも随分有名になっておるようです」「私は長い間、戦後で一番長い外務大臣をやらせて頂きました。私に質問が集中致します。その人に答えなければなりませんが、外務大臣の答弁というのは、ワシントンもすぐキャッチしております。モスコーも耳を傾けております。北京も注意しておるわけでございまするから、下手に言えないのであります。そこで、『あー』と言いながら考えて、『うー』と言いながら文章を練って、それで言う癖がついたものですから、とうとうそういうことになったのでございますが、私は悔いはございません」と自己分析の体でユーモアたっぷりに解説し、答弁に臨んだ議場を温かな笑いに包んだ。
ところが、盟友の田中をして「アーウーを省けばみごとな文語文になっているんだぜ?君ら(=記者)の話を文章にしてみろ。話があちこち飛んで火星人のように何をしゃべっているのか分からんぞ」と絶賛したように、その中身は極めて的確、且つ理路整然とした論理的内容であり、私的発言などではほとんど前置きは使われなかった。つまり、この「あー」「うー」は一言の慎重さを求められる外相経験で培われた公的発言の場(国会、討論、演説、会見など)での老獪な戦術であった節が大きいとされている。
また、蔵相経験からいち早く「今後の日本の豊かさには地方政治の拡充による地方都市の発展が重要である」と察知し、それを実現に導くための順序を明確なビジョンを以って構想する聡明さも持ち合わせており、野田佳彦(第95代首相)は「私が目標とする政治家」に小渕恵三と大平を挙げている。
一方、ユーモアについては7代目立川談志が自身の体験談として語るまくら(噺に入る前の「つかみ」)で「本名の松岡克由(まつおか かつよし)で参議院にいた頃、練馬区で見つけた中古の一軒家(談志が最晩年まで居住し、談志没後は立川志らく一家が居住)を購入する際に『大平さん(蔵相時代)、金ぇ貸してほしいんだけど』と相談を持ちかけ、『あー、貸すのはやぶさかではないけれど、何に使うのかね?』『ええ、家を買うンす』のやり取りを経てとりあえず頭金分だけ借り受けた。しばらくして借りた頭金分をきっちり揃えて返しに行くと、あろう事か大平さんはそれに利子を付けて返せときたもんだから、その根性の悪さに烈火の如く怒った。だけど、大平さんって人は大したもんだね。「うー、お腹立ちはごもっともだが、こうでもしないと君のプライドに傷が付くと思ってね(=利子を含めて返したという事実によって借金の負い目を払拭すると同時に談志の顔を立てる)」とポーンと返してきた。そう言われちゃ、こっちはもう何も言えねぇわな」と回想し、さしもの談志を閉口させた数少ない1人として紹介されている。