概要
日本の政治家。民主党所属時代の平成23年~24年(2011年~2012年)に第95代内閣総理大臣となった。
昭和27年(1952年)5月20日生まれ、千葉県船橋市出身。平成5年(1993年)に日本新党より衆議院議員に初当選。なお、当選同期には後に内閣総理大臣となる安倍晋三・岸田文雄がいる。
財務大臣(菅内閣)を経て、平成23年(2011年)9月2日より第95代内閣総理大臣に就任した。就任時引用した詩文の一部から「どじょう」という渾名が付けられた。
平成24年(2012年)1月15日、野田氏は眼帯を身に着けて官邸に出勤した。野田氏は記者団に対し、首相公邸の暗がりで目をぶつけたためと答えている。
平成24年6月、自由民主党(自民党)及び公明党との合意により社会保障・税一体改革関連法案(消費税を5%から8%、10%へと段階的に引き上げ)を成立させる。
平成24年11月14日、衆議院における安倍晋三自民党総裁との党首討論の席上で衆議院の「1票の格差」是正及び定数削減に関する自民党の協力を条件として「16日に(衆議院を)解散してもいい」と発言。自民党が応じたため、16日に発言通り衆議院を解散した。これに伴う第46回衆議院議員総選挙は12月16日に執行されたが、民主党は大敗北を喫し政権を再び自民党に明け渡すこととなった。同日中に民主党代表の辞任を表明。
12月26日、内閣総辞職。在職482日は民主党政権としては最長となった。
その後は、政権交代の戦犯扱いされ党中央からも遠ざけられていたが、平成28年に蓮舫代表就任によって幹事長任命される。しかし、党勢の回復は成し遂げられず2017年都議選の敗北の責を取って辞任。
これによって蓮舫代表も辞任に追い込まれた。第48回衆議院選挙では民進党の分裂によって無所属で出馬、当選し衆議院旧民進党無所属議員会派、無所属の会の所属になった。その後2020年に立国合併後の立憲民主党に入党。
2022年には7月8日に安倍晋三が銃撃され殺害された事件が発生して行われた9月27日の国葬に民主党政権の首相経験者では唯一参列。
また、同年10月7日には国会にて行われた追悼演説を行う。
「勝ちっ放しはないでしょう」という言葉に代表されるようにかつての仇敵に対する惜しみない敬意や情感のこもった内容で「心を打つ」と高く評価され、「憲政史に残る名演説」と賞賛する声もあがった。
2024年、第3代立憲民主党代表に就任。
政治家としての評価
旧民主党政権の中でも政治思想的に保守寄りであり、政敵にあたる石破茂が「野田氏は極めて真っ当な保守政治家だと認識しています」と評する。
首相時代に李明博韓国大統領(当時)に顔に泥を塗られたことはかなり腹に据えかねているらしく、2015年の日韓慰安婦合意にまつわる騒動の中では党代表の蓮舫に先回りして韓国政府批判をし党内の韓国擁護意見を徹底的につぶし、中国に対しても国策として尖閣諸島国有化を進め、沖ノ鳥島を「岩礁」と批判された際には「かつて、満潮時には水没してしまう岩礁に高床式の掘っ立て小屋を立てて、南沙諸島を実効支配した貴国にとやかく言われる筋合いはない」と返すなどこれまでの追従ではなく「言うべきことは言うスタンス」は評価が高い。
民主党政権の中でも官僚とは敵対することなく仕事を進めていった点についても評価が高い。もとより自衛官の息子であったことも背景にはあるが、防衛省が庁から昇格した際にも「自衛官の倅としてうれしかった」とコメント。また、大連立構想に支持を抱いていることからも(「101回でもプロポーズしていきたい」と語るほど)政敵でもある自民党との距離も近かったことが背景にある。
財務大臣時代には財政政策にブレが少なくあまり省議に口を挟まないことから、財務省内では「仕えやすい上司」との評価が定着していた。
官僚からも反発を食らい、霞が関と敵対も繰り返した中で野田政権では482日と民主党政権の中では最長記録となっていることがそれを裏付けている。
しかし、就任した際にはすでに鳩山由紀夫と菅直人政権で失われた信頼を取り戻すには至らなかった。こうした様々打つ手をなくしたため野田が民主党政権の幕引きを担わざるを得なかった。
こうしたことからも、政権交代の戦犯扱いとして扱うのはあまりにもお門違いであり、政権運営が未熟であった民主党のかじ取りなどを理解しかけた時にはすでに世論からの評価も低下して打つ手がなくなっていた。というのが野田の首相時代の正当な評価と言える。
当初より政敵だった安倍も「最初から彼が総理大臣だったら危なかった」とのちにこぼしたという。
なお、それでも現在でも野党にこだわる理由として「政権交代可能な二大政党制を実現するため」としている。