概要
1937年(昭和12年)6月25日、群馬県吾妻郡生まれ、東京都立北高等学校卒業、早稲田大学第一文学部卒業、早稲田大学大学院政治学研究科修了
日本の政治家。第84代内閣総理大臣、第18代自民党総裁(在任1998年7月~2000年4月)。
同じく政治家の小渕優子は次女である。
竹下内閣で官房長官を務めていた当時の昭和64年(西暦1989年)1月7日(昭和天皇崩御当日)、新しい元号「平成」を記者会見で発表したシーンが有名であり、「平成おじさん」のニックネームがある。
自民党総裁選では、田中真紀子からは凡人と評された(ちなみに他の候補者の梶山静六は軍人、小泉純一郎は変人)。
政権発足直後、アメリカのマスコミから「冷めたピザ」と酷評された。
が、野党の自由党や公明党との連立を果たして政権基盤の安定化に成功し、国旗・国歌法、周辺事態法、通信傍受法、男女共同参画基本法などの重要法案を次々に成立させ、その後「海の家のラーメン」(期待していなかったが食べたら案外旨かった)との評価を得る。
誰にでも気軽に電話をかけることも有名となり、「ブッチホン」なる言葉も生まれた。
晩年は首相の激務により体調を崩しており、これを見かねた娘の小渕優子が会社を退職して彼の秘書となった。しかし在任中の2000年4月2日に脳梗塞を発症、回復せぬまま約1か月半後の同年5月14日午後4時7分に死去。享年62歳。
首相経験者への追悼演説は野党第一党党首が行うのが通例であり、本来なら当時第一党野党であった民主党の鳩山由紀夫代表が演説を行う予定だったが、鳩山に対し猛烈な嫌悪感を抱いていた遺族側が強固にこれを拒否。例外的に首相経験者で野党社会民主党衆院議員(前党首)の村山富市元首相による追悼演説となった。この件に関連し、野中広務は後日、国会で小渕への哀悼の意を表明した鳩山を「前首相の死の一因があなたにあったことを考えると、あまりにもしらじらしい発言」と痛烈に批判した。
なおこの嫌悪感には当時、鳩山由紀夫が小渕のNTTドコモ株疑惑を追及していたためであり、遺族側も拒絶をした事が要因として挙げられる。
娘の小渕優子が後継となり地盤を継いだ。
政治家としての評価
竹下登の側近として地歩を築き、敵を作らない性格から「人柄の小渕」の異名をとった。その人柄は周囲を見下しマウントを取る癖があった橋本龍太郎とは唯一と言ってもいい政治家としての友人で会ったことからもその一端がうかがえる。
当選同期でもあった小渕は奇しくも橋本の後任として辣腕を振るう事となる。
また2000年7月21日から行われた沖縄サミットは小渕の希望たってのものだったと言われており、沖縄に思いを馳せた小渕のこの決断を高く評価する者も多く村山の追悼演説時にはこれを高く評価している。
その一方で政治家としては苛烈なかつしたたかな面を併せ持ち、前述のブッチホンでは小渕に批判的な記事を書いた記者に対して電話を行ったこともある。電話を切った際に厳しい表情で、『これでもう俺の悪口は書かない』と言い切ったという証言も残されている。
他にも追悼演説を行った村山富市が辞意を漏らした際に、当時村山内閣の副総理兼外務大臣だった河野洋平が後継首相に意欲を示した時には「「ロッキード事件で自民党が苦境に立たされた時、あっさり党を見捨てて新自由クラブ結党に走った河野の首相就任は絶対に受け入れられない」と強硬に反対したのは小渕だったと言われる。
更には総裁選挙に再選を目指して出馬した際に対抗馬として立候補した、加藤紘一、山崎拓に対しては、両名が率いる派閥を党役員人事・内閣改造で徹底的に冷遇。抗議の電話を加藤には「あんたは俺を追い落とそうとしたじゃないか。選挙とはそういうものだ」と言い放ち、加藤は絶句したという。
時として苛烈な側面を見せてきた彼だからこそ、様々な重要事案を成立させることに成功させることにつなげる事が出来たのかもしれない。
赤字国債の発行や公明党との連立、労働者派遣法を改正によりワーキングプアの問題の発生など多くの政治的課題を残したうえで世を去ってしまったことが汚点として挙げられる。一方で積極財政の成果により日経平均株価の回復やITバブルなどが発生させたのは小渕政権だったことを考えると、国の困難に立ち向かった宰相の一人として評価されてしかるべきものがあることもまた事実である。
一見おっとりとしていた小渕の事を田中角栄はこのように評している。
「光平さんの倅は目立たない男だ。ビルの谷間のラーメン屋。なかなかやるねぇ」