概要
1943年に地元の中学校(現在は高校)を卒業した後、国鉄職員として採用され、ここでのちに首相となる佐藤栄作と出会う。
青年団活動にも熱心であり、竹下登(のちの首相)や浜田幸一等とは活動を通して知り合った。
1951年に京都に戻り、地元の議員・町長を務める。1978年には京都府副知事に就任した。
1983年、自民党公認で京都選挙区から出馬し当選、以降、国会議員として活躍する。1994年、村山富市内閣で自治大臣として初入閣を果たす。
そして、のちの小渕恵三内閣では官房長官を務めた。2000年に小渕首相が倒れた後は森喜朗を小渕の後継自民党総裁に指名した。
2003年に国会議員を引退。しかし、その後も自民党ハト派のボスとして強い影響力を誇った。2011年に一旦自民党を離党するも、2016年に復党する。しかし2018年1月26日、京都市内の病院で死去。享年92歳。
主張
戦争反対、平和主義者だったと言われており、亀井静香は野中のことを高く評価していた。そのためか安倍晋三が首相再登板を果たした後は、自民党内のハト派のボスとして安倍総理を強く批判していた。
一方で、本当にハト派だったのかどうかということは疑問視されている一面も持つ。周辺事態法、国旗・国歌法、改正住民基本台帳法、通信傍受法といった法律を自身が官房長官時代に成立させたことなどがあげられる。
なお社民党議員で村山内閣で官房長官を務めた野坂浩賢は「本来、タカ派だと思う。しかし、政治家としてハトにもなりうる」と評している。
加えて村山富市はそんな野中を強く信頼しており、「野中さんは敵に回すと怖いと言われていますけど」とインタビューで質問されても「僕はそうは思わないけど」と返したとされる。また、野中も村山を「最高の総理大臣」と称しており村山が首相を退任した後も政治活動を共にしていた。
また、中華人民共和国や北朝鮮等と親密な関係にあった疑惑が指摘されており、一部の国民からは批判の対象となっている。これは野中の実家が鉱山から逃げてきた朝鮮人労働者をかくまっていたことなどもあったことなどを含め、「朝鮮半島から連れて来られた人たちが虐待を受けた姿を何度も見てきた」ためと言われる。野中の選挙区は北朝鮮からの入港隻数が国内最多だったことも背景にあることもまた事実であり、彼らが虐げられてきたことから生まれた不信感を取り除きたいと思い政治活動に励んでいたとされる。
また、野中が訪朝した際に日本人拉致事件の問題解決に向けて大きな貢献を見せたことも事実であり、必ずしもそれらが大きな問題とは言い切れないのもまた、事実である。