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谷垣禎一

たにがきさだかず

日本の政治家、衆議院議員。自由民主党所属。過去に財務大臣、自民党政調会長、自民党幹事長、自民党総裁などのポストを歴任。

概要

1945年3月7日京都府福知山市生まれ。
父は農林省の官僚から衆議院議員に転身し、文部大臣を勤めた谷垣専一。外祖父は影佐禎昭陸軍中将。母は外祖父の娘である安紀。

麻布高等学校卒業後、一年の浪人期間を経て東京大学に入学。東大ではサイクリングや山登りなどの趣味に没頭した結果、通常4年のところ8年在籍して法学部を卒業。その後、父の秘書を続けながら司法試験を数回受験して合格。

その後弁護士として活動中、父の急死でその地盤を継ぎ、1983年の補欠選挙で当選。(この時、自民党所属の野中広務も同時当選。)父が所属した派閥である宏池会に長年の間所属(2012年の総裁退任後は宏池会には戻らず)。自民党内で政策通の政治家として活動し、主に財政関係の分野で活躍。

2000年に起きた内閣の倒閣運動であるいわゆる加藤の乱では、倒閣の中心人物で宏池会の領袖でもあった加藤紘一が内閣不信任案の賛成票を単独で投じようとしたところ、「加藤先生大将なんだから、一人で突撃なんてダメですよ!」と涙ながらに止めたことがあった。その場面が谷垣の人物紹介の際に必ず触れられるシーンとしてしばしば紹介される。

2001年総理大臣となった小泉純一郎に重用され、国家公安委員会委員長、財務大臣を歴任。この時の活躍から、安倍晋三福田康夫麻生太郎らと共に小泉退陣後の次期総裁候補として数えられる様になり安倍、福田、麻生らが総裁を歴任した後の2009年に自由民主党総裁に選出された。

2012年の任期満了に伴い、当初は総裁続投の意志を示していたが後に取り下げた。党内の長老グループが同じ執行部にある石原伸晃を推したことなどが原因とみられている。これにより、総裁職で野党のまま退任した唯一の総裁となってしまう(因みに総裁職で首相になれなかったのは谷垣と河野洋平の二人。だが河野は当時、任期中に自社さ連立政権発足に伴い与党に復帰している)。後任の総裁には安倍晋三が選出され、衆議院議員選挙の後に組閣された第二次安倍内閣で法務大臣に任命され、第二次安倍改造内閣では党三役のトップである幹事長に就任。

2016年7月、サイクリング中に転倒し頸髄損傷の重傷を負う。そのため入院した最中に行われた東京都知事選挙の敗北について、責任があると石原伸晃になぜか非難された。同年8月の内閣改造に際し自民党幹事長を退任。
その後リハビリを続けていたが、体調の回復が十分でないことや「若手に譲りたい」との考えから2017年9月20日前後に間近と言われた次期衆議院選挙に出馬せず引退する意向を党幹部らに表明、党からも慰留されたが本人の意思は固かった。
同年9月25日に安倍首相が衆議院解散を宣言したのに合わせて「昨年来、自転車事故により、入院・加療しており、その間、衆議院議員として十分な活動をできなかったことを遺憾に思っている」「今回は立候補せず、後進に道を譲り、政界を引退させていただく」とのコメントを公式発表して正式引退、72歳で政治の表舞台から去ることになった。

妻である佳子夫人とは司法試験を通じて知り合った。
谷垣は東大卒業から7年後の34歳の時、7度目の挑戦で司法試験に合格したが、一緒に合格できなかった彼女に「僕のところに永久就職しませんか」とプロポーズしたとされる(佳子夫人は早大卒)。谷垣との間に二女をもうけた佳子夫人は、温厚な人柄で、内助の功に徹し、夫との仲も非常に良好だったという。死去の数年前から体調を崩し、谷垣自身も看病に当たっていたが、2011年6月13日に死別(享年66)。

自民党が政権を失った際、与謝野馨をはじめとして幾人も議員が逃げ出す中、党の決定的な分裂を防ぎ、まとめ切った手腕は評価が高い。
また、自民党が選挙で敗れた時の総裁は麻生太郎であり、政権に復帰した時は安倍晋三がその座にあった。前任者の後始末に追われ、後任者においしい所を持っていかれた、いわば貧乏くじを引いた立場であったと言える。
前述の事故や夫人の病死など、不幸に見舞われやすい点から、同情の声は多い。

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