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村山富市

むらやまとみいち

(大正13年3月3日~ )村山富市は日本の政治家。第81代内閣総理大臣。日本社会党委員長。1947年の片山哲以来の二度目の日本社会党総理。
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政権発足までの経歴

大分県大分市出身。日本社会党社会民主党所属。
 大正13年、漁師である父・百太郎と、母・クラの間に八男三女の六男として生まれる。高等小学校を卒業後上京し、印刷会社に就職。働きながら東京市立商業学校の夜間部に通う。昭和17年明治大学に入学。在学中に徴兵され陸軍歩兵第23連隊に入隊。昭和20年の終戦時には陸軍軍曹だった。昭和21年に明治大学を卒業。日本社会党の大分市議、大分県議を経て昭和47年から衆議院議員を務める。(当選8回)平成5年に細川連立政権下で日本社会党第13代中央執行委員長に就任。翌平成6年6月30日自由民主党新党さきがけとの「自社さ連立」により内閣総理大臣に就任した。いわゆる「五十五年体制」下で対立していた二大政党+1による連立政権、さらに発足時点では自衛隊を容認すらしていなかった政党の党首による「社会主義政権」の誕生は内外を驚かせた。

阪神・淡路大震災時

 平成7年1月17日に発生した阪神・淡路大震災兵庫県南部地震による震災)時の首相であったが、初動において自衛隊出動(兵庫県庁からの出動要請は発生から4時間余りが過ぎた午前10時を回った頃になり、それまで本格的な活動ができなかった)等の対応に遅れを生じ、批判を招いた。
 原因としては兵庫県庁の対応に不備があったこと、発生前夜に表面化していた党内紛争(新党結成を目指す議員の大量離党問題)の対応に気を取られていたことなどが挙げられたが、長年の野党暮らしから官僚機構を使いこなせなかった点やそもそも(この当時では)戦後未曾有の大規模な直下型地震による震災に対応する法的・行政的な危機管理対策自体がなされていなかったこともある。
発生3日後の20日には小里貞利(自民党)を震災担当相に任命し、復旧・復興に関する陣頭指揮を委ねた他、震災後の通常国会では被災者支援等に関する法案を成立させている。


全日空機ハイジャック事件

 平成7年6月に発生した全日空ハイジャック事件では史上初めてSAP(特殊武装警察)の投入を指示した。なお、同部隊の存在は翌平成8年まで公表されていなかった。

オウム真理教に対する対応

 村山が総理在任中の平成7年3月、オウム真理教によるテロ「地下鉄サリン事件」が発生。5月にはオウム真理教教祖である麻原彰晃(松本智津夫)が逮捕された。宗教団体によるテロ事件の発生という前代未聞の出来事を受け、村山はオウム真理教に対する破壊活動防止法の適用手続きをとることを決定した(適用はのちに見送られる)。日本社会党はそれまで、憲法に定める集会・結社の自由を侵すものだとして破壊活動防止法に対して否定的な立場をとっていた。


「村山談話」

 終戦50周年にあたる平成7年、昭和初期における日本の戦争全体を「侵略」と位置付け、「反省」と「お詫び」の意を表明した。いわゆる「村山談話」である。この談話は後の内閣にも引き継がれ、日本政府の公式な歴史見解とされている。
 この談話を発表するにあたっては自・社・さ三党それぞれの歴史観の相違や思惑が絡まりあって、文章の起草が難航した。しかし、最終的には自民党のタカ派議員として有名な平沼赳夫(当時運輸大臣)や日本遺族会の会長を務めていた橋本龍太郎(当時通産大臣)らの同意をとりつけることに成功。「戦後50周年に際しての総理大臣談話」は内閣の総意として閣議決定された。
 しかし、保守・右派の中には村山談話に対して否定的な立場をとる者もいる。平成20年、当時航空自衛隊幕僚長を務めていた田母神俊雄が民間の懸賞論文に発表した論文を巡り、騒動が発生した。論文のタイトルは「日本は侵略国家であったのか」というものであり、政府見解である村山談話を否定する内容であった。当時の麻生内閣の浜田靖一防衛相は「空幕長の立場で政府見解とことなる意見を公にすることはふさわしくない」として田母神を空幕長から更迭した。田母神は以後もテレビ出演や著書を通じて自身の歴史観を主張しつづけており、一定の支持も受けている。

退陣後

 平成8年1月、橋本龍太郎副総理(自民党総裁)に禅譲する形で退陣。平成12年に政界を引退した。
 委員長の内に日本社会党代64回定期大会にて党名および組織変更を断行し、「日本社会党」は「社会民主党〈社民党〉」に変わった。
 日本社会党最後の党首であり、現在の所「大正生まれ」「日本軍在籍経験のある」最後の総理大臣である。
 引退後も「従軍」慰安婦への償い金の支給を目的とした「女性のためのアジア平和国民基金」の設立や莫大なコメ支援などをともなった北朝鮮訪問に関与しているが、これらの行動には賛否両論がある。
 

人柄について

 戦後政治の中では希少な「本人の意思と無関係に総理の椅子に押し上げられた」ケースであり、人柄について悪く言う声は少ない。政界の中でも左派右派の垣根を越えて少なからぬ信頼を得ていた。
 村山が総理に就任した当初、海外では「日本に社会主義政権誕生」などと報道され、外交経験もなく馴染みの薄い社会党委員長に対する警戒感が強かった。
 総理就任直後にナポリでひらかれたサミットにおいて村山は当時のクリントン米大統領と初めての会談を行った。村山はそこで誤解と警戒感をとくために自身の生い立ちや、イデオロギーにとらわれずに政治を進めていく方針について一通り語ったという。会談を終えたクリントンは村山の話にいたく心を動かされ、「それが私の一番聞きたかったことです。」と語り、その後のサミットでもクリントンは不慣れな村山を何かとサポートした。

関連タグ

村山談話
眉毛:トレードマーク。
竹下登:同年生まれ。総理就任時には諸般アドバイスを与えていたともいう。

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