概要
熊本藩主であった肥後細川家の18代目当主だが、本人は東京で生まれ育っている。近衛文麿は母方の祖父。
上智大学卒業後に朝日新聞社入社。その後退職し1969年政界進出を目指したものの一端落選、1971年の第9回参議院議員通常選挙で自由民主党公認で初当選した。
1983年から2期にわたって熊本県知事を務めた。肥後細川家自体が代々芸術や茶道などに重きを置く家柄であり、彼自身もプロの陶芸家としても活動する程芸術方面に傾倒していたため「くまもとアートポリス」と銘打ち数々の公共施設の建築に著名建築家やデザイナーを招き多数の斬新な形状の建物を建てた。
その後「日本新党」を立ち上げ国政復帰。1993年に「新党さきがけ」を結成し、同年の衆議院議員総選挙で圧勝。1993年8月には小沢一郎の押しもあり、日本社会党、公明党、新生党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合の連立のもと79代内閣総理大臣に就任した。
しかし佐川急便からの借入金問題を追求されて窮地に陥り、翌年4月に突如辞任。
元々息子の政界入りに反対であった父の護貞は首相就任時に「あれの性格ではいずれ投げ出す」とコメントを出しており、その通りになった。
その後も政界との関わりは持ち続けていたものの、基本的には陶芸家として神奈川県で生活。その他にも美術館などの理事を務めた。2011年には東北芸術工科大学の初代学園長に就任している。
猪瀬直樹の辞任をうけた2014年2月の東京都知事選に、小泉純一郎の説得を受けて出馬を表明。「殿、出番です!」をキャッチコピーに「脱原発」を掲げて民主党や結いの党などの議員から支援を受け、元首相の菅直人や吉永小百合、瀬戸内寂聴ら多くの文化人が支援を表明した。
この都知事選に際しては「原発再稼働を止める最後のチャンス」と訴える細川支持者の一部が、「反貧困」と「東京からの民主主義の再建」を掲げて先に出馬表明していた宇都宮健児弁護士の陣営に辞退を迫る騒動が起きたが、宇都宮陣営からは「脱原発以外の基本理念が違いすぎる細川陣営とはとても一本化できない」として反発を受けてしまう。
結果、都知事には自民公明の支援を受けた舛添要一が当選、細川は次点の宇都宮にも及ばず大敗した。なお、出口調査によると細川および舛添支持層は知名度が高い中高年層が中心で、若者からの支持が厚かった宇都宮健児・田母神俊雄とは対照的な結果であった。
妻の佳代子はスペシャルオリンピックス日本会長などを務め障害者福祉に関わっており、このため上記の選挙に際しては夫に変わって討論に出たこともあった。また佳代子と鳩山由紀夫の妻・幸は親友同士である。
息子の護光は熊本県内で芸術家として活動。
実弟の護煇(もりてる)は継嗣不在となった近衛家に養子に行き、同家32代目当主近衛忠煇となった。日本赤十字社社長、および国際赤十字・赤新月社連盟会長(2017年まで)。
関連タグ
小池百合子・・・1993年の選挙戦時、細川とともに日本新党の顔として積極的にメディア出演を行なった。