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概要編集

日本政治家。第82・83代内閣総理大臣(在任1996年1月~1998年7月)、第17代自民党総裁(在任1995年9月~1998年7月)。剣道師範。登山家。1937年7月29日生、2006年7月1日死去(享年68)。死因は多臓器不全


人物像編集

1937年7月29日生まれ、東京都出身。

スッパマンに似ている。身なりには人一倍気を使っていたと言われ、ポマードでセットしたような頭髪で知られていたが、実際は水性ヘアクリームを使っていたとのこと(本人談)。イケメンな顔つきで、煙草がよく似合うと言われていた。クールなキャラクターで女性人気も高く、橋龍と親しまれていた。



政治家としての経歴編集

若手時代編集

1963年、父・橋本龍伍の死を受け、世襲2世として出馬した選挙にて初当選。同期には小渕恵三など。佐藤栄作に拾われ、自由民主党佐藤派に入ることとなる。余談だが龍太郎は剣道や登山に明け暮れており、当時は政治家を志してはいなかったが、父の急逝時に政治家を志していた弟の大二郎がまだ被選挙権を持っていなかった為代理出馬し当選したそう。

なお、初当選時には継母が付き添ったことから、マスコミからは「大学入試ばかりではなく、国会議員も保護者が付き添う時代になった」と揶揄され「マザコン代議士」と言われたこともあった。


1969年に3選目を迎えるが、この際佐藤退陣直後に首相となった田中角栄やその弟子に当たる竹下登が梃入れしたこともあり、田中派に傾倒するようになっていった。

自民党の重鎮になるまで編集

1978年に大平内閣厚生大臣となり初入閣し、水俣病患者への対応に取り組んだ。

1985年、竹下登が勉強会として「創政会」を結成。そこに龍太郎も参加し、田中派を裏切る形で経世会成立に尽力。翌年には中曽根政権にて運輸大臣に就任し、国鉄の分割、民営化に尽力した。また、オレンジカードを作ったのも彼である。

1987年に自民党幹事長代理に就任。当時の幹事長が病に倒れており、実質幹事長のポストを我が物にする形となった。この頃には竹下派七奉行として知名度と認知を確固たるものにしていた。

1989年に宇野宗佑が総裁に就任し、龍太郎も幹事長へと昇任するが、宇野の女性問題社会党土井たか子を中心としたマドンナブームに湧き、自民党結党以来の逆風が走った。その結果先の参院選に敗れる結果となったが、その際の龍太郎の「ちくしょう、やっぱりこれだけ(議席数が)開いたか…」と悔しがる姿があまりにもイケメンであるとして女性人気が上昇。結果的に龍太郎は女性支持者を更に増やすこととなった。それを機に総裁候補として選挙出馬を試みるが、竹下登金丸信に動きを封じられ、結果総裁となったのは海部俊樹だった。(実際海部総裁時代に自民党は幹事長に金丸の弟子である小沢一郎が47歳と言う若さにもかかわらず抜擢されている)。海部は政治改革を行おうとするも、途中で竹下派とソリが合わなくなり辞任した。また、前述の通り金丸・小沢らとの関係は悪化。度々メディアでは「一龍戦争」と注目された。


政権交代編集

海部の退陣後、ポスト海部となる筈だった小沢が心臓病に倒れ、復帰までに時間がかかると言うことで宏池会宮澤喜一が総裁となった。しかし直後に金丸の佐川急便政治献金問題が発覚。挙句1992年には金丸が銃撃される殺人未遂事件が発生し、金丸は辞任を余儀なくされた。

その後継者には龍太郎の一番の理解者にして同期の小渕恵三が就任するも、それが竹下登の根回しにして小沢側の勢力を弱体化させるための根回しであったことに腹を立てた小沢が自民党を盟友の羽田孜や後輩に当たる鳩山由紀夫らを連れて離党し、新生党を結成。

また、自民党は党内基盤の弱体化などから逆風が吹き荒れ、政治のトレンドとなっていたのは同じく自民党を離党し、元首相の孫にして熊本を支配していた細川家の血を引く日本新党の細川護熙や社会党委員長として勢力を保っていた村山富市などのような反自民の重鎮だった。

新生党はそこに目をつけ、細川を立てた上で大連立政権を樹立しようと図り、宮澤内閣不信任案を提出。不信任案は可決され、自民党は結党以来の逆風が吹く中での選挙となった。その際人気のない宮澤に代わり女性人気の高い龍太郎は選挙遊説に度々呼ばれ、同じく演説の上手かった石原慎太郎河野洋平と並んで「自民党の三本の矢」と呼ばれるまでに至った。


結果として安倍晋太郎の息子に当たる晋三岸田文雄などの議員を当選させるが、細川・小沢陣営が大躍進し、野田佳彦枝野幸男と言った反自民の面々が続々当選し、自民党は過半数割れという大敗北を喫した挙句、小沢が根回しして非自民・非共産野党連合を成立させ、結果として55年体制の崩壊にまで至った。

宮澤は総裁を引責辞任し、三本の矢として活躍した河野が野党第一党総裁となった。その際に龍太郎は小沢著の「日本改造計画」に触発されてか「政権奪還論」なる著書を出版しており、一龍戦争時代の対立が続いていたことがうかがえる。その後細川の汚職事件や社会党の連立離脱から村山政権下にて政権奪還を果たし、村山政権で通産大臣に就任した。


一度目の自民党総裁選編集

1995年に河野洋平総裁任期切れによる総裁選に直面すると、龍太郎は世論の支持を理由に総裁選に立候補。河野は派閥からの支持が得られないとして辞退した為龍太郎の単独勝ちであるかに思われていたが「YKK」として名を挙げていた小泉純一郎が「聖域なき構造改革」を公約に突如立候補。結果として龍太郎の勝利が揺らぐことはなかったが、この総裁選は小泉に対しての期待が高まるキッカケともなった。一方、龍太郎は小泉の同志でありながらも龍太郎を支持した山崎拓加藤紘一には自民党の重役ポストを任せている。


橋本内閣編集

1996年1月に村山が退陣したことで龍太郎が指名を受けて組閣。その際に村山政権下で続いていた自由民主党社会民主党(1995年に日本社会党が名称変更)・新党さきがけの連立を堅持した自社さ大連立政権である第一次橋本内閣を組閣した(橋本内閣の行政については詳細後述)。橋本内閣は行財政改革の必要性を説き、構造改革とも取れる改革を実施した。この年橋本は支持率が安定したことを受けて衆議院を解散(因みに小選挙区比例代表並立制での選挙はこれが初めてである)。「JAPAN DREAM」を公約とし、「子供達が夢を持てる国を作ろう」と訴えた。結果は自民党の大勝利に終わったが、投票率は野党連立政権への失望もあってか思うように振るわなかった。


1996年11月、社民党、さきがけが下野して閣外協力に転じたことで実に約3年ぶりの自民党単独政権が実現した(第二次橋本内閣)。龍太郎はここで「6つの改革(六大改革)」を提唱した(詳細後述)。しかし在ペルー日本大使館襲撃やアジア通貨危機への対応に追われることとなった。


1998年、不況の最中に行われた参院選で惨敗、総理総裁を引責辞任した。


首相退任直後編集

辞任後、龍太郎は小渕政権から「首相外交最高顧問」に命じられ、更には厚生大臣への就任を打診されるが、後者は「参院選敗北の責任がある」として断っている。その後綿貫平成研究会会長が衆議院議長となったことを機に周りの後押しもあって平成研究会会長となった。しかし実権は野中広務青木幹雄が担っていたことから会長とは名ばかりの「雇われマダム」と揶揄されてしまった。


しかし内閣が支持率に伸び悩んでいたことから人気回復のために龍太郎を行政改革担当大臣および内閣府特命担当大臣に任命する。この際の手腕が高く評価され、ポスト森は橋本の再登板ではないのかと期待が高まった。


二度目の総裁選出馬と汚職事件編集

ここに来て龍太郎は総裁選に再出馬。対立候補は麻生太郎亀井静香と言った面々である為橋本の圧勝であるとされたが、皮肉にもかつての総裁選で一騎打ちの末勝利した小泉純一郎に敗北を喫することとなった(敗因として挙げられるのは圧倒的な小泉人気だが、その他にも大村秀章ら若手橋本派議員が小泉支持に回ったことなどもある)。更に2004年には日歯連闇献金問題が発覚し、龍太郎や青木幹雄ら橋本派の重鎮が関与していたことから橋本派は一気に弱体化。龍太郎は責任を取るとして派閥会長を辞任し、次回の選挙の出馬も辞退するとした。後任となったのは次男の橋本岳である。


総理時代の政策とその評価編集

バブル崩壊の後始末と財政赤字が問題視される中、「六大改革」を掲げ、中央省庁再編、税制改革緊縮財政策が実施された。


政策編集

経済編集

経済においては経済回復のために「金融ビッグバン構想」なる計画を立てて実行していったが、途中から前述のように財政健全化や緊縮財政に傾いただけでなく、在任中の消費税率引き上げ、法人税・所得税の減税、健康保険の自己負担率引き上げ、特別減税廃止などの失政の連発から景気後退を招き、結果として山一證券などの金融機関が次々と破綻していったことから支持率が低迷していった。実際これらの政策は全て逆効果となり失敗してしまっている。消費増税により税収が約4兆円増えたが、所得税と法人税の歳入が激減し、差し引き2兆5千億円もの税収減となった。1998年度には名目GDPは前年度比マイナス2%となり、これ以降の日本経済はデフレ局面に突入している。


六大改革編集

行政改革、財政構造改革、社会保障構造改革、経済構造改革、金融システム改革、教育改革の6つの総称。特に行政改革への強い熱意を見せており、「火だるまになっても行革をやり遂げる」旨の発言をしたことから「火だるま行革」と揶揄された。


挫折を余儀なくされた橋本の改革路線は皮肉にも対立候補であった小泉純一郎の「聖域なき構造改革」として引き継がれることになった。


外交編集

外交においては首相外交最高顧問に任命されていることもあり、強く実力を発揮している。例としては普天間問題の名護市辺野古への移設での全面合意による解決や、北朝鮮拉致問題への言及などである。また、剣道を活かした外交も展開していたとか。


民営化について編集

国鉄民営化にも一役買っていることからも察せる通り、民営化には比較的肯定的である。但し郵政民営化に表立って言及することはあまりなかった。


評価編集

経済不振の際に消費増税して現在まで続く大不況の根本の原因を作ったとして強く非難されている。


小泉自民党や民主党の緊縮策が劇場的なものであったため長らく橋本緊縮の件は忘れられていたが、平成時代が総括される頃になりこの経緯が発掘され、令和に入ってから評価は下がる一方という状況になっている。


橋本政治はその悲惨さや失政の繰り返しから低評価をされがちだが、消費税引き上げ法案自体は村山政権下ですでに確定していた為不可避であったことや、橋本龍太郎が2001年の自民党総裁選にて消費増税は間違っていたと正式に謝罪したことなどから橋本に同情する声が一部で上がることも。


人柄編集

父が障害者だったことも相まって「弱者を助けるための政治」を信条としており、実際に彼が首相だった時代には普天間飛行場問題の解決に尽力したり、当時は陰謀論として片付けられてしまっていた北朝鮮拉致被害者問題について言及したり、優生学を認めていた優生保護法を改正して優生思想を非難している。また、自民党の政治家でもかなりの政策通として知られており、彼を慕う者は多かった…


…はずなのだが、どうにもマウント癖があるらしく、こうした性格が無ければとっくに総理大臣になれていたと兄貴分の竹下登は語る。

質問をされた時は必ず嫌味な答えを返し、その結果自民党内では「見識はあるが、人望はない」「怒る・威張る・拗ねる」「遠くから見ている富士山のようで、近づくほど欠点が目立つ」「一人で遊ぶから友達ができない」などと散々な言われようである。

実際に政治家として唯一の友人は当選同期の小渕恵三しかいなかったとされる。人柄の小渕と呼ばれた彼が、橋本の後任となったのは何かしらの縁があったのかもしれない。前述のように、退任後彼にポストを用意する動きもあったとされる。


こうした性格は、父が障害者であったことも踏まえて健常者に負けないという障害者を抱えた家族特有の気負いが強かったためとも言われている。

一方で大変優しい性格であったとされ、夫人はインタビューで「実はわりと涙もろい人なんです」と橋本を評し人情家としての側面があったことも。


逸話編集

剣道と登山

Wikipediaで登山家と明記されるほどの登山好きで、中学時代はいつも登山に行っていたとか。また、剣道への熱中は激しく、師範格まで上り詰めている。


喫煙

かなりのヘビースモーカーで,1日に数十箱ほど吸っていたとか。なお,本人が語っていないため詳しくは分からないが,18歳から吸っていたとか(なおどこかの民主党議員も同じようにしていた)。


家族,友人関係編集

編集

父は政治のドンと言われた橋本龍伍。吉田内閣の際に官僚を務めた。


編集

弟・大二郎も政治家(元高知県知事)。実際彼が龍伍急死時に被選挙権を得ていたら,龍太郎は剣道と登山に集中するつもりだったらしい。


友人編集

中学校の同級生に安部譲二がいる。


関連タグ編集

政治 佐藤栄作 田中角栄 竹下登 小渕恵三 小泉純一郎 小沢一郎

登山 剣道

スッパマン 就職氷河期


村山富市(前任/81代)→橋本龍太郎小渕恵三(後任/84代)

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