このタグは国が管理および運営を行ったり、国がすべて出資する会社が管理運営を行う鉄道のことである。
なおpixivにおいてはほぼ日本に1949年(昭和24年)から1987年(昭和62年)まで存在した日本国有鉄道およびその前身となる組織や施設・車両等に関するイラストや小説に本タグが付与される場合が大半であるため、本項目では国が運営する鉄道を軽く説明したのち、日本国有鉄道について説明する。
広い意味での「国鉄」
鉄道というインフラはかつては軍事や産業における輸送において重要な役割を果たしたこともあり、国が管理および運営を行う、あるいは行わなければならないとしている国も多く存在した。また、鉄道線所有および運営を別の組織で行っている事例も存在する(上下分離方式)。
さらには、中小私鉄などの倒産などによる路線保護のために国が買収するというパターンも存在している。
経営方式としては国の直轄機関としての運営、政府が出資する会社形式などが存在する。
一方で海外鉄道の民営化に関しては米国のように国営鉄道がまったく存在しない国(なおアムトラックは合衆国政府が出資する株式会社形態であり、州が出資する鉄道会社も存在する)、カナダやドイツのように従来の国鉄がそのまま民営化された国、英国のように上下分離方式で多数の企業に分割(後に鉄道線運営会社は再国営化)して民営化された場合もある。またフランスのように逆に国の資本が増強された事例も存在する。
日本のように、上下一体で地域分割された民営化の形態はあまり例がないが、これには民営化の際の経緯や人口密度の多寡、その国の鉄道の立ち位置が絡んでいる。
なお、JRやアメリカのAmtrakのような国策と密接に関係した鉄道会社を「国鉄」と称することがある。
関連項目
ここに存在するのは項目がピクシブ百科事典に存在するものである。
- フランス国鉄(SNCF)
- ドイツ鉄道(DBAG)
- アムトラック
- イギリス国鉄(BR)
- スイス国鉄(SBB/CFF/FFS)
- 韓国鉄道公社(KORAIL)
- 台湾鉄路管理局(TRA)
- ミャンマー国鉄(MR)
- タイ国鉄(SRT)
日本国有鉄道
狭義の「国鉄」は日本国有鉄道を指す。この組織は1987年3月31日限りで分割民営化され、4月1日にJRグループへと引き継がれた。
なお組織の正式名称としての日本国有鉄道の名称は戦後につけられているが、国鉄という名称はそれ以前より存在し、広く使われていた。
また、この組織は鉄道のみならず、国鉄バス、青函連絡船や宇高連絡船などの定期船事業、職員向けの病院、鉄道施設内の警察業務(鉄道公安職員、民営化後の鉄道警察隊)なども行っていた。
なおプロ野球球団、国鉄スワローズ(その後紆余曲折を経て現・東京ヤクルトスワローズ)を1950年(昭和25年)から1965年(昭和40年)まで間接的に所有していた。
沿革
発足
この組織は1949年(昭和24年)6月1日に発足した。
本来は明治時代に官設鉄道として設立されたものおよび鉄道国有法により私鉄を買収したため国有鉄道としたものとがあり、これらは政府(の関係省庁、たとえば鉄道院、鉄道省、運輸省など)の直営の国営事業として運用していた。
しかし第二次世界大戦によって駅や線路などの設備が荒廃したこと、復員兵・海外引揚者などの復職や失業者対策としての大量雇用をさせられたことなどにより財政が悪化していた。
この状況を見たGHQのダグラス・マッカーサーは直接国と関係ない事業を切り離し、公共企業体とすることを命令、昭和24年に行われたが、4月の予定が2か月遅れた。
それでも発足したのは良かったものの、これ自体はあくまでもただ単に日本の国営鉄道が行政官庁直轄による時代から、国営企業による時代へ移行したに過ぎなかった為、ほとんど注目されることはなかった。
発足するとまず財政の正常化を行わなければならない多難なスタートとなり、経営再建のため、当時約60万人もいた職員の首切りを行わざるを得なかった。
しかし、労働運動に影響力を持っていた左翼団体が革命を叫ぶ不安定な世相のなか、国鉄の労使問題は政治の焦点となり、当時の下山総裁は謎めいた死を遂げる(下山事件、総裁は家を出たのち行方不明となり、翌日轢死体で見つかった)。
さらに下山事件と前後する形で昭和24年の夏だけで、三鷹事件(国鉄三鷹電車区から無人の電車が暴走転覆、線路近辺の住人6名死亡20人負傷、なお冤罪事件でもある)、松川事件(何者かにより東北本線松川‐金谷川駅間のレールが外され列車が脱線転覆、乗員3名死亡)などの怪事件が続発し前途に不穏な影がついて回ることとなった。
しかし当局はこれにめげず合理化および人員整理を断行し経営改善をはかったものの、今度は桜木町事故、洞爺丸事故(青函連絡船にて台風15号をおして出航、結果1155人の死者行方不明者を出した事故)、紫雲丸事故(宇高連絡船にて濃霧をおして出航、他の連絡船と衝突沈没、修学旅行中の小学生など168名死亡、なおこの船はそれまでに3回事故を起こしていた船であった)と大事故が続発し、世間から轟々たる非難を浴びた。
それでも朝鮮特需による好景気の下で、終戦後わずか10年ほどで戦前の輸送水準並みへ回復させた国鉄は、1957年からスタートさせた「第1次5カ年計画」に基づき、全国で老朽施設の更新や輸送力増強、動力近代化を推進した。
また、国労による吊し上げ行為に反発した新潟の組合員が大量離脱し、労使協調派の鉄労を結成した。
1958年には初の特急電車「こだま号」(151系電車)を登場させ、先頭部には民間からの公募で決めた「JNRマーク」と「特急マーク」を取り付けた。
1961年には「第2次5カ年計画」がスタート。東海道本線の輸送力増強策として1959年に着工した東海道新幹線が東京オリンピックを前に1964年に開業し、国鉄の象徴となった。
斜陽化と改革の失敗
国鉄は官営時代から長らく国民の足と物流の大動脈として重要な役割を担ってきたものの、昭和40年代以降は財政面で雲行きが怪しくなった。
整備新幹線や過密運行緩和を目的とした首都圏路線の複々線化などによる輸送力の大幅を目的とした『増強通勤五方面作戦』の実施、あるいは長期的にはコスト削減になる動力近代化のための新車導入といった積極的な大規模投資が重くのしかかった。
また、航空機や特に自動車の発達に伴い、長距離輸送および貨物輸送における鉄道の割合が低下したことや、不適切な運賃設定(運賃のインフレ対応が遅れたり、赤字になったために運賃を上げ利用者が減るなど)で利用者に敬遠されつつあったことに加えて赤字線の問題も放置され、遂にこの組織の莫大な赤字は国政問題化した。
この問題に対し国としても手をこまねいていたわけではなく、生産性向上運動や極端に営業成績の悪い赤字83線の廃止、財政再建10カ年計画(10年で国鉄を黒字化する計画)が立ち上がった。
しかし生産性向上運動は国労こと国鉄労働組合や動労こと国鉄動力車労働組合といった強力な労働組合が日本共産党や日本社会党の支援を受けつぶし、赤字83線廃止は自民党によりつぶされ、財政再建10カ年計画は人件費の増大や貨物輸送の減少により尽く失敗した。
特にこの頃の労働争議は苛烈を極めたが、「国民の足」を潰す形となる長期間のストライキ・順法闘争はやがて支持を失うどころか、「上尾事件」「首都圏国電暴動」という形で猛反発を受けた。
また、貨物輸送でも、企業の経営に直結する物品の輸送が労働組合の一存でどうなるか分からない点が荷主に大いに懸念された。
1975年冬、国労・動労はついに大規模スト(スト権スト)を決行するが、時すでにトラック輸送の時代になっていたため失敗する。
組合としても日々国鉄の立場が厳しくなる状況を座視していた訳でもなく、過激な労働争議の中でも貨物列車をストライキの対象から外す「貨物安定化宣言(1978年 動労)」など、利用者の立場に沿った方針に転換したが、国鉄が全面的に信頼を回復するには至らなかった。
さらに、革共同等の過激派の浸透により職場のモラルは極限まで低下、職員が車両に落書きをする始末であった(アジ電車)。
有名な鉄道紀行作家宮脇俊三の著書によれば、昭和50年代前半には既に黒字の路線は東海道新幹線と山手線のみという惨状であったとされ、中には収支係数3000(100円を稼ぐために3000円の経費が必要)を越える大赤字路線まで存在した。
組織も硬直化しており、その事例のひとつが勝田線で、同線は福岡県の住宅街に路線が存在し需要が十分あったにもかかわらず、国鉄側が1日6往復というダイヤを一向に改善しないことでここまでの赤字路線と化していたのである。
更には1970年代の末から、国鉄職員のミスや規律の不履行などによる事故やカラ出張などの不祥事が相次ぎ、国鉄に対する批判はいっそう厳しいものとなった。
一例では、1982年に名古屋駅で機関車の付け替えのために停車していた東京発紀伊勝浦行きの寝台特急「紀伊」に、酒気を帯びた機関士が運転するディーゼル機関車が衝突し、機関車と客車一両が大破するという許されざる事故が起こった。
その1年後には西明石駅で、同じく酒気を帯びた機関士が運転していた下り寝台特急「さくら」が速度超過によって脱線する事故が起きると、国鉄に対する批判は一層強まった。
職場規律の荒廃など国鉄の実態が明らかになるにつれて、世論は国鉄批判と分割民営化へと流れていった。
分割民営化へ
1980年(昭和55年)には日本国有鉄道再建法が成立、所有する路線を幹線・地方交通線に分類し運賃をわけ、地方交通線のうち特に採算の取れないとされていた特定地方交通線の大整理を行うこととなった。
これらは当時の内閣総理大臣であった鈴木善幸によりすすめられた。
この時整理された地方交通線の中には、本線との直通運用や存続した区間より利用客の多い路線、さらには運用により改善可能であった路線も存在し、路線名単位での画一的な廃止は後年にまで問題をもたらした(後述)。
さらに1982年(昭和57年)には中曽根内閣主導の行政改革の一環として、各地方に分割(上下分離や新幹線の独立などはせずに)し民営化することに至った。
新会社の発足
1987年(昭和62年)に分割された会社はJRとされ、鉄道会社がJR北海道、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR四国、JR九州の旅客6社とJR貨物の計7社、JR総研、JRシステムなどであった。
なおバス事業や連絡船事業に関してはJRバスなどという会社が作られたわけではなく、それぞれの会社に移管された。公安職員は解体され、各県警に統合された。
民営化がバブル景気と重なったこともあり、国鉄分割民営化後は新幹線や都市圏を中心にJR線のサービス改善が進んだ。
一方では地方交通線などの閑散路線や貨物輸送は冷遇されるようになり、ローカル線の廃止や第三セクター化が進められた。
鉄オタ視点では分割民営化で車両の種類が増え各社が個性的になるという利点があった一方、長距離列車が大幅に削減され、在来線による長距離旅行は不便で味気のないものとなっていった。また、JR東発足直後に座席のグレードダウンを推し進めていた時期があり、鉄オタの中に国鉄懐古派を生むこととなった。
民営化と禍根
分割の際、恣意的な形で分割を行ったため、西日本の地方区間や三島会社の先行きは当初から不安視されていた。
これはJR各社の経営基盤にまで悪影響を与えており、JR西日本が起こしたかの信楽高原鐵道列車衝突事故やJR福知山線脱線事故のような重大事故や、JR北海道における事故や不祥事の多発も、会社による利益格差(各社の新幹線の分割結果によりJR西日本は利益の少ない山陽新幹線のみを継承している)による営業目標の違いが原因の一つとされており、政治からの不適切な介入によって分割民営化を無理に進めた悪影響が現在まで残っていると言える。
遊休地等の処分は国の失策(資産をバブル期のうちに手放さず、平成不況後に投げ売りした)等もあり赤字の清算はうまくいったとは言えない状況である。
この民営化の際、国鉄凋落の原因の一つとなっていた国鉄労働組合(国労)など、経営側と対立関係にあった労働組合関係者を大量解雇された(なお当局寄りの組合員は基本的に全員採用。また、国労を離れた者には復帰が許されたとされる)。これによって解雇された職員(国労組合員)がJRを提訴しており、時々駅前で該当演説を目撃することも。
国鉄が作り上げた全国的な鉄道輸送システムは、その膨大なインフラ投資のためにこの組織及び国の経営を圧迫し、末期には技術停滞を招く結果となったが、旅客・貨物輸送の両面で高度経済成長を支える役割を存分に果たし、そして今も果たし続けている。
その他
歴代総裁
リンク先は全てWikipedia。
- 下山定則(1949/6/1~1949/7/6 下山事件で死亡)
- 加賀山之雄(1949/9/24~1951/8/24 桜木町事故で引責辞任)
- 長崎惣之助(1951/8/25~1955/5/13 紫雲丸事故で引責辞任)
- 十河信二(1955/5/14~1963/5/19 東海道新幹線建設費問題で辞任)
- 石田禮助(1963/6/20~1969/5/26 唯一任期を満了した国鉄総裁)
- 磯崎叡(1969/5/27~1973/9/21 マル生運動後の現場混乱を受けて辞任)
- 藤井松太郎(1973/9/22~1976/3/5 スト権奪還ストに対する対応の責任を取り辞任)
- 高木文雄(1976/3/6~1983/12/1 国鉄再建に関して政府の圧力を受け辞任)
- 仁杉巌(1983/12/2~1985/6/24 国鉄独自の再建案の責任を取り辞任)
- 杉浦喬也(1985/6/25~1987/3/31 運輸省から送り込まれた最後の国鉄総裁)
ロゴマーク
メイン画像の『Japan National Railways』の頭文字を図案化した「JNR」以外にも「国鉄」を示すロゴマークは複数存在した。
- 「JNR」マーク
JNRマークは、主に特急電車・気動車にクロムメッキ(ないしステンレス)切り出しのロゴとして用いられていたほか、鉄道連絡船の煙突に掲げられたファンネルマーク、車内の灰皿や扇風機などに使用されていた。
- 「工」マーク
鉄道省より前の、工部省鉄道局だったころから用いられていた意匠。公共事業体となってからも、民営化されるまで使用され続けた歴史あるマーク。
鉄道連絡船のファンネルマーク(1960年頃までに新造された船)、用地境界の杭、作業用ヘルメット、身近なところでは寝台車の乗客に貸し出された浴衣にも印刷されていた。
- 「動輪」マーク
蒸気機関車の動輪を図案化した意匠。国鉄の事業を体現する象徴的なマークと言っても過言ではない。
制帽の帽章や、制服の襟章やボタン、国鉄バスの車体正面のエンブレム、乗車船券の地紋などに用いられた。
実際はイラストのようなものの他に複数種類あり、用途によってデザインが異なった。例えば、切符の地紋や旗に使われたものはスポークの本数が少なく、帽章や襟章に使われたものは本数が多かった。
国鉄動力車労働組合(動労)の旗も動輪の意匠が使われている。
- 「五七桐」
日本国政府を示す五七桐の意匠。
こちらは「JNRマーク」や、「工」「動輪」比べるとやや地味な存在ではあるものの、国鉄を示すマークとして使われていたことがある。
帽章に動輪マークと合わせて用いられていたほか、制服の襟章(後に制服改定とともに動輪マークに)、また鉄道公安職員の階級章は警察の旭日章に五七桐を組み合わせた意匠の襟章であった。
トリビア
- 連絡線として利用していた例としては伊勢鉄道がある。3セク化されたが本来この路線は関西本線と紀勢本線を短絡するための路線であり、その影響で現在でも特急などで利用すると別料金がかかる。
- 画一的な廃止の例としては江差線と松前線があげられる。この二つの路線は廃止された松前線(なお基準ぎりぎりであったらしい)よりも存続となった江差線の閑散区間(2014年に部分廃線)のほうが利用者が少なかった。
タグとして
このタグは、JR各社発足以前にデビューした国鉄時代の車両イラストなどに付けられている。国鉄が消滅して2017年で丁度30年経つが、国鉄型車両(キハ40系や105系など)はいまだに数多く活躍している。
D51 C62 0系 485系 103系 113系 キハ58系
元国鉄職員の有名人
- 今井雄太郎(元プロ野球選手)
- 西村徳文(元プロ野球選手、前:千葉ロッテマリーンズ監督、現:オリックス・バファローズ監督)
- 福良淳一(元プロ野球選手、前:オリックス・バファローズ監督)
- ストロング金剛 (元プロレスラー『ストロング小林』、タレント)
- 伊藤敏博(シンガーソングライター)
- 藤井フミヤ(ミュージシャン)
- ツートン青木(物まね芸人)
- 田中要次(俳優、分割後はJR東海所属)