國鐵千葉
こくてつちば
通常、「國鐵○○」というタグ・表現は、「JR化して十ン年も経つのに国鉄型ばっかり」 という意味を持つ。 しかし國鐵千葉の場合は、若干ニュアンスが異なる。
この場合、
「いまだに国鉄時代と同じ事が起きる」
という意味が大きなウェイトを占める。
車両が旧型ばかり、というのは、実はその副産物である。
詳細は後述。
基本的にJR千葉支社管内のことである。
ここで重要なことは、原則として「千葉県内」ではないことである。
例えば常磐線は取手駅を境界として東京支社管内と水戸支社管内が直接接触しており、またダイヤが密接な関係にある成田線我孫子支線(西線)も東京支社管区であり、原則としてこの表現の対象にならない。
確かに常磐線も2007年頃まで国鉄型の103系、403/415系の巣窟であったが、これはどちらかと言うと千葉と言うよりは茨城軽視の結果による。
(よって常磐線のかつてのボロ具合を表現するなら國鐵水戸が相応しい)
しかし常磐線は国鉄東京5放射の中ではJR化後特にダイヤ面で最も改善が進んだ線区でもあり(それでも在京大手私鉄に比べるとまだまだ甘いが……)、またJR東日本初の在来線特急新形式が651系スーパーひたちであったことなど、それなりに恩恵は受けていた。
さて、千葉管内の方はと言えば、21世紀に入っても千葉支社管内の幕張車両センターに所属するメイン車両はスカ色の113系と国鉄色の183系、京葉車両センターに所属するメイン車両も103系&201系(青)と205系(赤帯/メルヘン顔)で、極一部を除き国鉄型の車両しか配備されていなかった。
國鐵新潟同様に(特に久留里線担当の木更津派出)国鉄型車両については113系非冷房車の冷房化工事、前面の補強工事しか行われておらず、普通列車に関してはアコモデーションはほぼオリジナルの状態のままであった。
京葉線や総武線緩行・総武快速線は、積極的に新車が投入され旧型車両を置き換えていた(ただしこれらは東京支社管区を含む)ので広島や金沢、新潟よりましに思えるが、総武緩行線の新車の登場は1998年に入って以降から、京葉線にいたっては本格的な新車(後述)の導入開始が2010年と首都圏の他支社より少し遅めだった。なお房総特急は255系が一部の「わかしお」「さざなみ」を置き換え、その後E257系0番台が「あずさ」を置き換え、あずさ運用を追われた一部の183系が千葉へとやって来て、ボロをボロで置き換えた…後にE257系500番台によって183系は定期運用特急から一掃された。
JR世代の車両が走っているのは東京に近い所(武蔵野線除く)だけであった為、東京からやって来て千葉駅以東に行くと、何処に行っても113系、113系、183系、103系、113系、201系……等という状態が約40年もの間、殆ど変わる事無く続いていた…
極めつけに非電化の魔窟久留里線は、キハ30の様な骨董品、あのJR西日本ですら早々と全廃したキハ37、八高線を走っていたキハ35の車体更新車キハ38等の数々の珍品が巣食い(塗装変更されている分そこはましだったが、キハ30は国鉄色に戻された)、既に廃れたタブレット閉塞を行う、時代に取り残された産業遺産だった。
JR千葉支社が國鐵千葉である最大の理由は、ずばり動労千葉こと「国鉄千葉動力車労働組合」がJR上層部及び国と対立しているためである。千葉では2011年までストライキが起きていたのだ。
先にあげた常磐線が千葉支社管内ではない理由もここにある。もし、常磐線でストが起きればダイヤ乱れが千葉県内にとどまらず、その先の茨城県、福島県とドミノ倒しに拡大してしまう(加えてかつて常磐線は東北本線の混雑区間のバイパス役も担っていた)。従って、JR東日本千葉支社の前身である国鉄千葉鉄道管理局分離時から、常磐線は東京鉄道管理局と水戸鉄道管理局が直に接触するように区分されていたのである。
彼らは成田闘争にも関与して成田空港に猛烈に反対し、成田新幹線計画は頓挫している(その後、成田空港線が開業し、成田エクスプレスの運行が開始された。後に京成電鉄が運営する成田スカイアクセスもできた)。
動労千葉の思想として、福知山事故の一時期、鉄オタ界隈でもそれなりに支持された「ボルスタレス台車危険論」があり、このためボルスタレス台車が基本のJR車両に否定的だった。
JR千葉支社管内もさすがにそのままと言うわけにはいかない。
まず、成田空港線開業とともに鎌倉車両センター所属ではあるものの、総武快速線・横須賀線にE217系を投入、また、習志野電車区に209系500番台を総武緩行線に送り込み、一部の103系を駆逐。更に後継のE231系を投入し、残った103系を201系・205系と共に追い出し総武緩行線を完全に更新した。(その後習志野電車区は廃止されそこに配置されていた車両は全て三鷹車両センターへ転属した。)
更に205系が京葉車両センターに転属、その後転属してきた京浜東北線の209系500番台と共に其処の103系と201系も追い出され、2007年に首都圏から103系が絶滅したが、幕張車両センターには、まだ113系がまんま残っていた。それらは製造後相当の年数が経過している上に、鋼製車体の為房総の海風に晒され車体の腐食が進んでいた。限界に達した113系を腐食し難いステンレス車で置き換える事が喫緊の課題に成った。一部は宇都宮・高崎線からの211系で置き換たものの、殆ど意味は無かった。そんな中、2007年頃、登場から約13年が経過し減価償却期間の過ぎた209系0番台が京浜東北線から引退し、幕張車両センターに転属。そして、2011年9月1日から置き換えが開始された。
一方、2007年、京葉車両センター初のJR世代の車両となるE331系が1編成のみ導入されるもわずか2年で運用を離脱し、2009年には実質的に国鉄型のみの配置に逆戻りしたが、それもつかの間、2010年にE233系5000番台の導入が始まり、201系どころか209系500番台(1本除く)を瞬く間に置き換えたほか、205系のメルヘン顔編成も宇都宮線、日光線へ追いやっている(その宇都宮線や日光線からもE131系の進出により2022年ダイヤ改正で撤退)。運用そのものは以前の201系などのスジを踏襲しているとはいえ、このE233系5000番台が、内房・外房・東金線(東金線への乗り入れは分割併合可能な編成のみ)にも乗り入れる点は特筆に値する。
京葉線への新車投入より遅れること数年、同じ京葉が管轄する武蔵野線用として209系500番台が三鷹車両センターから移籍し、また山手線のE235系増備により玉突きで三鷹を追われたE231系0番台も2017年より武蔵野線で活躍を開始。205系5000番台は漸次引退した。
久留里線を管轄する木更津支所でも、2012年末に新型気動車キハE130系が登場し国鉄型気動車は一掃されたが、これが東京から千葉以遠でダイレクトに新車が投入された(優等列車以外での)初の事例である。
そして、既に特急用には新車のE257系500番台が投入されていた一方、一般車については新車の導入がなかった幕張車両センターには、内房線・外房線末端部と鹿島線でのワンマン運転開始に合わせてE131系が導入され、ヨレヨレになった209系を一部置き換えている。
千葉における国鉄型の時代は、事実上終焉を迎えたと言っても過言ではない。
千葉の悪夢はそれだけではなかった。
広島や金沢、新潟とは違い、首都東京の隣で有り、古くから大都市近郊区間に含まれる千葉には、大中小の私鉄や三セクの鉄道が多く走っているが、此処にも国鉄時代(主に60年代製造)の電車・気動車がゴロゴロしていた。
「2001年時点での千葉の真骨頂だ!」
- 京成にいまだに居座り続ける赤電軍団の生き残り。
- 新京成には3回も先頭部を改造した800形。
- 東武野田線には、「私鉄の103系」と呼ばれる東武8000系が屯しており、その中に紛れ込む姿形色もそっくりな旧型電車。
- 醤油の香り漂う町の銚子電鉄に響く釣り掛け電車の爆音
- 世紀末に一旦車両の更新がされたとはいえ、それでも製造から20〜30年が経過した電車が走るみりんの街の流鉄
- 東京メトロ東西線の延長である東葉高速鉄道には、営団5000系をリメイクしただけの電車が本家と共に走る
- 珍車に成りつつあるLE-carを愛用し続けるいすみ鉄道
- 半世紀近くその風景が全く変わる事の無い小湊鉄道のキハ200
彼等の存在と相まって、首都東京の隣とは思えない「かつてのあの風景」を21世紀に入っても尚其処に残し続けていた。
だが……
いすみ鉄道は、ちょっと「?」な部分も有るがちゃんと新車を投入。
京成にいた赤電の残党はこれらによって置き換えられて消え、京成及び北総からは既に引退。
銚子の釣り掛け電車も何時の間にか営業を終えた。
東武野田線も遂に新車を投入。名前も「東武アーバンパークライン」なる妙なネーミングが付いた。
小湊鉄道もキハ40を譲受し(就役中の車両は5両のみで実質は変わっていないが)、流鉄にも少し新しめな西武の譲渡車が導入された。
「國鐵千葉」を余所に、私鉄ではこうして時代の生き証人達が淘汰され始め、新しい時代がやって来たのである。
現在千葉を走る私鉄の旧式車は、野田線の8000系、流山の電車達、小湊の気動車、いすみの収集したキハ28とキハ52である。